カセットテープやラジカセが、廉価となり、私でも扱えるようなものになったのは、中学校時代からだと覚えている。 わたしが聞いていたのは、クラシック音楽ではなく、ビートルズやボブ・ディランやその周辺の音楽だった。その頃の、中学生同様、邦楽はまるで振るわない時代であって、邦楽は聞かなかったが、皆と違ったの... 続きをみる
エッセイのブログ記事
エッセイ(ムラゴンブログ全体)-
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プロフィール画像を変更し、ふたたび、顔出しをしました。 「Hide おすすめ本 ブログ」や「Hide おすすめ本 エッセイ」で、検索すると、しつこく「Greeeen hide 父」なるブログが現れて、わたしのブログの題名や文章の一部を、勝手に、引用しています。 わたしは、このような顔をした人ですと... 続きをみる
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現在、もっとも、堅牢で長持ちのする記憶媒体は、磁気テープだと言われている。パソコンのHDDのような記憶媒体では、コンピューターウイルスによって、情報が破損されてしまう恐れがあるが、磁気テープでは、その心配はないのだそうである。 日本では、ある企業が、あらゆる有意義な情報を、本であれ、音楽であれ、な... 続きをみる
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前の記事で、コロナ禍のことについて書かせて頂いたが、たぶんに希望的観測を言わせてもらった、序でに、ワクチンの開発スピードは、驚くほど早くなっている旨の事を、書いた。 わたしは、医療従事者でないし、ワクチンのことについても、ニュースや報道でしか知らなかった門外漢に過ぎないのだが、ただ、このことだけで... 続きをみる
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わたしは、学生時代の四年間、東京に住んでいたのだが、その住んでいた寮は、昼間の幽霊でも、出るかというくらい、古びた、水道の水も、そのまま飲むのはどうかというほどの寮だった。 その代わり、立地はすこぶる良くて、地下鉄茗荷谷の駅から歩いて5分の、隣には億ションが建っているという寮であった。 今は、もう... 続きをみる
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日本に城は多いが、これは、単なる戦国時代の遺物ではない。ハッキリと近世になってからの日本人にとっての心の拠り所である。 明治時代となり、城の政治的な役割は終わり、人々に新知識、新思想が入って来てからも, 城は人々の心の拠り所であることを、止めなかった。 現在、熊本城や名古屋城の再建費用として、何百... 続きをみる
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古代エジプトに、王のことばを、そのまま神の言葉として、羊皮紙に記銘する、純粋極まりない表情をした書記官の彫刻がある。 人間、ここまで相手を信頼しきって純粋になれるものかと思うくらいの顔と表情である。 ただ、そこまで行かなくても、人の話をまっすぐに聴くという姿勢は、トリビアルな事ではなく、重要な事柄... 続きをみる
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エッセイ モーツァルト K525 <アイネ・クライネ・ナハトムジーク>
おそらく、モーツァルトの中で、モーツァルの音楽をよく知らない人を含めて、もっとも知られている曲は、この曲であろう。わたし自身、クラシック音楽にのめり込む、最初の頃は、この曲に熱中したものである。 けれども、この曲は、クラシック音楽に詳しい人なら、誰でも知っていることなのだが、モーツァルトの作曲した... 続きをみる
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わたしは、平均律クラヴィーア曲集は、リヒテルのピアノで聞き初めた。それというのも、吉田秀和さんが「一生持っていて、聴くに耐える演奏」と太鼓判を押している演奏だったこともある。 学生時代だったが、その言葉を文字通り受け取って、これは素晴らしい演奏なんだと、自分に言い聞かせるように、聴いたものだった。... 続きをみる
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聖火リレーが始まった。 だが、人心は付いてこず、しらけムードであるというような観測が出ているが。 ’64当時の東京オリンピックも、始まった当初はそんな風だったので、それが、行事などがドンドン進んでいく中に、次第次第に盛り上がっていき、後で振り返ってみれば、世紀の祭典と呼ばれるようになった。 かくの... 続きをみる
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このモーツァルトの最後のピアノ協奏曲は、わたしは、最初に、ベームとギレリスとウィーン・フィルのLPで聞いた。吉田秀和さんが推薦していたLP盤で、吉田さんはこのLP盤の演奏を、しきりに誉めていたが、わたし自身は、27番に関しては、なぜこうも、虚無的な演奏をするのだろうかと訝ったものだった。 このよう... 続きをみる
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モーツァルトは、ごく小さい頃から、父に連れられて、まるで旅芸人のように様々な国へ、旅行しているが、これは、父の意向であり、レオポルトは自分の息子を成功させてやろうという野心に燃えていたであろうが、幼いモーツァルト自身にとっては、そんな野心は、言わばどこ吹く風というものであったろうと想像される。 旅... 続きをみる
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以前、Windowsの8.1から10に切り替えようとしたところ、そのパソコンが、頻繁にメーカーやWindowsのupdateを行っていなかったこともあって、アップ・グレードに失敗した経験がある。 その過去の轍を踏まないようにと、今回のWindows10のアップ・グレードは、慎重にしようと考えている... 続きをみる
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現今、世界は石油に変わるエネルギーを求めて、四苦八苦しているが、これが、非常に無理な注文であることを、色々とかんがえたりしている。 ある方のブログで、もし、電気自動車があのドカ雪の最中に、立ち往生でもしたらどうなっただろうかと疑問を呈して居られたが、わたしは、なるほどと、ひどく納得したものだった。... 続きをみる
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この本については、わたしはまだ、「子」の章しか読んでいないので、「おすすめ本」の中に入れるのは、気が引けるが、一応、わたしなりの理由とともに、この本を取り上げることについて語ってみたい。 南方熊楠の著作は、どれも本格的な学術書であって、いわゆる、一般読者層を対象とした読み物とは、まるで違うことを、... 続きをみる
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聖書には、深刻な表現が多いが、その一つとして、 義人ヨブは、神から手酷い試みを受け、その理不尽な苦しみの最中に、「わたしの誕生日は呪われろ」と、ぎりぎりのことばを吐く。 自らの生まれた日を呪う、この表現は、深刻そのものであって、他の聖書以前のどの古典にも、見出せない恐るべき呪いの言葉と言って良い。... 続きをみる
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日清食品は、冷凍食品のうどんの氷冠製法麺を出していてくれて、とても有り難く、よくこれを、自分風にアレンジして食べているのだが。 また、なぜ、うどんだけが氷冠製法麺なのか、不思議なのである。 スパゲッティやラーメンの麺などを、氷冠製法するのは、何か技術的な難しさでも、あるのだろうか。特に、スパゲッテ... 続きをみる
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色々、オリンピックのことが取り沙汰されているが、もし、首尾良く、東京オリンピックが開催されるなら、これほど感動的なオリンピックも、先ずないと言って良いものになると予想される。 人類は、かくも長期間、見えない大敵と戦ってきた、それも、一国ではなく全人類挙げてである。そうして、このことは様々なメディア... 続きをみる
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独断的地域点描 関西 笑いと人情の大阪 澄ました京都 オシャレな神戸 ○ 愛知県 朴訥な三河 浮薄な尾張 地場産業の瀬戸 新興地域の豊田 ○ 首都圏 東京 ザ・シティ 埼玉 ア・タウン 神奈川 ザ・タウン 千葉 ア・シティ ○ 将棋や囲碁等に、正解などない。あるのは... 続きをみる
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公私ということが、あまり言われなくなった。ある百貨店王が言った言葉がある。 デパートは公共財たれ。 ○ 実業家たちは、ことばの人ではないから、残されたことばはじつに、少ない。 ある原油調達の達人が言ったことば、油人たれ。と。 ○ やはり、公共というものが、言外に含まれている。 ... 続きをみる
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前の記事で、カストラートについて少し触れたが、この去勢された男性歌手について、やや詳しく述べてみたい。 ご存知の通り、男は思春期を迎えて声変わりをするが、カストラートという歌手は、この声変わりを人為的に抑えた超ハイ・テナーの歌手である。 声変わりをする前の少年は、女性のような声をしているが、そうし... 続きをみる
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わたしは、この題名の記事は、5、6編書いて終わるつもりだったのだが、バッハに掴まってしまい、なかなか、次のハイドンやモーツァルトまたベートーヴェンに行けないでいる。 思うに、バッハという人は、知れば知るほど不思議な人である。およそ世の中の芸術という芸術というものを概観してみて、このバッハに相当する... 続きをみる
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久しぶりに、家電量販店に行って、買い物をしてあれこれ買い込んだのだが、JBLのブルートゥース・スピーカーには驚いた。 JBLはアルティックやBoseなどと並んで、スピーカー業界の老舗だが、今、オーディオ業界には、かつての華やかさはない。 一時代前は、オーディオ評論家なる人がいて、イベントなどで熱弁... 続きをみる
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ヘルムート・ヴァルヒャという盲目のオルガニスト、チェンバリストがいたが、わたしはバッハのオルガン曲は、好んでこの人の演奏で聴いている。 この人は、盲目でありながら、バッハのあの膨大な鍵盤曲のすべてを、暗譜してしまうほどの驚異的な記憶力の持ち主であったが、わたしはそうした理由で、この人の演奏を好んで... 続きをみる
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人は酒に酔うように、理に酔うものである。そうして、理に酔った者の始末に悪いのは、酒に酔った者より、酔っている自覚がないことである。 ○ 現在、盛んに理念なるものが叫ばれている。その叫んでいる人の顔を、よく見てみれば良い。なんと、険しい表情をして、力み返っていることか。 ... 続きをみる
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二十世紀を一言にしてみる 国家が実験場と化した時代 ○ 短歌 5首 理念のみ先行したるオリンピックことばばかりで人居らざりき 祭典を成功せしむ実労はことばにあらず人に拠るのみ 理念をや成就せしむと思い込み浅はかなるは言葉なりけり 理念ちう金ピカ言葉追いかけて何処に向かうやオリンピック オ... 続きをみる
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※この文章は、ひとつの試論として、お読み頂きたい。 イングリッシュ風に、端的に言わせて貰えれば、英語圏のthは、大変ローカルで、難解な発音である。 このthの発音をむずかしいと感じるのは、われわれ日本人だけではない。English圏以外の外国語を話す人々にも、とてもむずかしいと感じるものである。そ... 続きをみる
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音楽は、果たして、至上の芸術であるか。 「すべての芸術は音楽になりたかった」というショーペンハウアーのことばは有名で、これに異論を唱える人も少ないようだが、現在、音楽が享受しているこの破格の待遇は、確かなものかどうかを、問うてみるのも面白いかも知れない。 思うに、音楽は、区分けを嫌がる芸術であるよ... 続きをみる
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バッハのマタイ受難曲は、一般に、メンデルスゾーンの初演で、日の目を見た曲と言われている、バッハの真骨頂が発揮された曲として有名であるが、なるほど、世間的にはそう見て差し支えないかも知れないが、初演という歴史的事実については、わたしはその説に、いささかの違和感を持つ者である。 メンデルスゾーンの功績... 続きをみる
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わたしは、自分にあまり決まり事を付けることが嫌いな性格である。牛乳は毎朝飲むが、これは、いわゆる、わたしのアイディンティティであって、決して、決まり事ではないと思っている。 さて、ところで、題名のブログであるが、ここ最近、毎日UPしている。Blogは、思うに人をクセにさせるような面白い作用を、持っ... 続きをみる
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お気付きの方も、多かったと推測するが、今回の特措法の改正案が、立憲民主党も加えての賛成となったのは、自民党と立民党との間の腹芸が、物を言ったものと言って良い。 先ず、最初に提出されていた法案に、自民党がわざわざ刑事罰を加えておいたことが、腹芸の腹芸たる所で、この最初の刑事罰を伴った法案が、国民感情... 続きをみる
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司馬の「空海の風景」を読んでいたときに、面白い文章があった。弘法大師がある仏説を真理だと、証明するという件りがあって、司馬は、それを弘法大師独特の方法だと書いていたのだが、その方法とは、自分が書いた詩を引きあいに出し、こうした優れた詩を詠めるのは、拠って来たるその仏説が真である証拠だという証明の仕... 続きをみる
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ヘンデルの音楽が、特に合唱などでよく見られる多声的という性質において、素晴らしいものであると、わたしはかんがえるのであるが、個としての感情を、掬いとってくれる音楽であるかどうかとなると、疑問符がつくように感じる。それこそ、プレロマン的な性質であるが、個の喜びや悲しみも、十二分に表してくれる、バッハ... 続きをみる
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西洋音楽史を眺めていると、まるで、音楽はバッハからはじまっているような錯覚を覚えるが、これは、その過去に前例がないくらい、非常な深さと大きな広がりを持った音楽を、バッハという一個人が書いたためで、上記の形容は、単なるわたしの主観的な感想というものではなく、そうした音楽であることを、歴史の過酷な荒波... 続きをみる
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クラシック音楽史を見ていると、不思議だなと思うことがよくある。言うまでもなく、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンというように西洋音楽の伝統は流れて行くのであるが、これは、言わば後付けの、純粋な音楽史的解釈であって、この中で、実際に生前から認められていた音楽家はと訊ねると、まるで、様子が... 続きをみる
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音楽について、語ったり語られたりする際、わたしは注意することがある。音楽について言われたその言葉が、ちゃんとその人自身の詩となっているかどうかということである。 ごく若い頃だが、名前はとうに忘れてしまったが、あるクラシック音楽の評家と称する人の文章を読んだことがある。そこには、ある有名な音楽家の曲... 続きをみる
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日本が、史上はじめて世界と衝突したのは、元寇の時だったと、わたしはかんがえている。 あの元寇のとき、高麗や蒙古の軍団が、どれほど残酷なことをやって去って行ったかは、今でも、五島列島やその近辺に行けば、語り継がれているほどである。以前のブログでも、触れたことがあるから、ここでは繰り返さない。 そのと... 続きをみる
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大げさな題を掲げてしまったが、現代という時代は、言わば、無方向的な時代だと、わたしはかんがえている。 個人のレベルについても、そうであるし、国家レベルに話を広げて見ても、この方向に進むべきだという方向性が、まるで見えない、また、見ようとしない時代であろうと思っている。 不安で孤独な民衆と、立ち止ま... 続きをみる
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つい最近、ある人と何気ない気候の話をしていて、わたしが、「日本は、季節の変わり目なんかには、気温が乱高下して、また、じつに、コンパクトに気候が移り変わる国ですね。」と言うと、「ええー、そうですかあ? 昔はもっと気候が温暖で、こんなに暑かったり、寒かったりするなんて、最近の気候は、やっぱりおかしいで... 続きをみる
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文章を書いて、賞を取ったりお金を貰ったりということは、あまり頓着せずに、ものを書いているが、こうしたわたしでも、文章を書いて些少のお金になったことがある。 わたしの兄の勤め先でのこと。社長の出した自叙伝を読み、社員がそれぞれ感想文を提出するということになった。 確か、原稿用紙2,3枚の分量だったと... 続きをみる
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わたしのすぐ上の兄は、賭け事が好きだったが、ギャンブルで身を持ち崩すということはなかった。 わたしには、よく、場外馬券場へ行って馬券を買ってきてくれと言ったものだが、わたしは、そういうところへ出入りすること自体が嫌いで、言下に断ったものだった。 けれども、そういうわたしだが、若い頃、ある期間、パチ... 続きをみる
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時代もまったく変わってしまったなと思う食品の代表として、「塩」が挙げられると思う。ご存知方も多いと思うが、昔は、「塩」は国が専売特許を取って売っていたくらいの人間その他生物には無くては適わない、生命維持のためには必須の食品である。 今、塩に対する認識はどうであろうか。現今の医療従事者にとっては、高... 続きをみる
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音楽、殊にクラシック音楽について語ろうとすると、音楽についての教養がどれくらいだとかという話になりがちなのが、かなしいところだと思っている。 もちろん、音楽的な教養がしっかりしていることは、慶賀なことではあろうが、調性とか、この音は何調の何音などの基本的な音楽知識はあっても、クラシック音楽などは、... 続きをみる
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ミケランジェリという名ピアニストがいたが、この人の実況録音の演奏が廉価で発売されていたので、買い漁ったことがある。 聞いて、まず、驚いたのは、観客たちの咳払いの激しさと、そうした雑音をまるで意に介していないように聞こえる、ミケランジェリの超然としたピアノ演奏である。 ほとんど、わざとしているのはな... 続きをみる
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わたしは、元々、原理とか理念というものを好まない性格である。殊に、芸術の世界で、原理とか理念とかいうことばを聞くと、これらのことばを発した人間の硬直した表情というものが思い浮び、なんとも言えない、興ざめな気持ちになってしまうのである。 「芸術は、きれいであってはならない。心地よくあってはならない。... 続きをみる
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参考程度に、読んでもらえれば有り難いのだが、わたしはコロナは、インフルエンザのやや重い症状のものだと思っている。 風邪とは違うということで、よく言われる、嗅覚異常や脱毛などのコロナによる後遺症のことは、実は、インフルエンザやただの風邪のときでも、それなりに起きることなのである。インフルエンザによる... 続きをみる
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現今、非常な健康食ブームだが、このブームに止めを刺す王者の食品として、挙げられるのが、植物性乳酸菌であろう。そうして、この植物性乳酸菌で大事なのは、生きていなければ、ダメだということである。 植物性ではないが、市販されている、例えばカルピスやヤクルトは乳製品で、無論、乳酸菌も入っているのだが、いか... 続きをみる
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この絵には味があるとか、この文章には、味わいがあるといように、ほめ言葉として、よく使われるが、われわれは、知らぬ間に重要なことを語っているようである。 意味という、みんなが分かり切って使っている言葉があるが、では、抑も意味とは何かと問われれば、そのまま黙ってしまう人が大半であろう。これは、その字義... 続きをみる
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皆さん、ご存知だと思うが、マイケル・ジャクソンの歌で有名な曲で、日本曲名は「スリラー」で、特に、何でもないようなこの語は、至極、単純な単語として、誰もが知っていて、当然のような語なのだが、実は、発音が厄介極まる語なのである。 学生時代の古い話で恐縮だが、わたしと同じ大学の友人から聞いた話なのだが、... 続きをみる
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時代の問い わたしとは何か ○ 悲しみという美しさ ○ 人間には何ができて、何ができないか
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わたしは、ずいぶん本を読んで来たほうだと思う。これは、親や誰か他の親族に言われたという訳ではない。 わたしの主な趣味は、読書とクラシック音楽鑑賞だが、わたしの親は、むしろ、本ばかり読んでと、わたしを非難ばかりしていたものだし、兄は兄で、貴族が関わった芸術として、至極単純にクラシック音楽を否定し、同... 続きをみる
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現代科学は物質的な絶対性はあると、証明したかに見える では、心的な絶対性はないと、なぜ、言い切れるのだろうか ○ 広々とした空虚 わたしはそこにどんな夢を紡ごうか
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名古屋のお雑煮はとてもシンプルである。お雑煮ということばを使っているのが、どうかと思うくらいのシンプルさである。 正月菜(小松菜)を荒切りし、鍋に適量の水とその正月菜と角切りの餅を入れて煮込み、頃合いを見て醤油で味付けし、餅が軟らかくなったところで、お椀に移し、カツオ節を乗せて、出来上がりである。... 続きをみる
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クレンペラーという指揮者は、この曲は、音楽が鳴っている箇所は、ほぼ一時間ほどであるから、レコード一枚分で宜しいと、音楽が鳴っていない箇所はすべて削って、レコード一枚にして、世に問うたそうである。 クレンペラーという人は、大指揮者で、この人がいたお陰で、確かNBCオーケストラという立派な交響楽団がで... 続きをみる
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「落としどころ」という言葉を聞いて、ピンと来る人は、歴とした現代の社会人であると思う。 だが、この言葉は、どうやら新しいことばのようで、大言海にも広辞苑にも見えない。いつ、誰が使い始めて、広まったのか、調べてみると面白いかも知れない。 勿論、このことばの意味は、交渉の際、どうしても相容れないように... 続きをみる
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しばらく、ブログを休んでいました。失礼しました。 前に、キャッシュレス貨幣について、触れた記事で、量子コンピューターが導入されるなら、その桁外れな計算能力によって、暗号のような鍵のついた貨幣は、再び紙に戻らざるを得ないという意味のことを書いたが、テレビで、量子暗号通信なるものを報道していた。 これ... 続きをみる
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このオルガン曲は、わたしも、ご多分に漏れず、中学の音楽の授業で、初めて聞いたのだが、初聴したときの感想は、よく覚えている。 こんなに大きな曲なのに、なぜ、小フーガなどと「小」という題名がついているのだろうという違和感が先に立ったものだった。 4、5分ほどの曲に過ぎないのに、この圧倒的な大きさは、い... 続きをみる
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生誕250周年ということで、何かと、ベートーヴェンについての催しがあるそうだが、わたしも、それに乗っかる形で、ベートーヴェンについてのかんがえを、少し纏めてみたいような気持ちになったりする。 クラシック音楽の愛好家でなければ、まず、ベートーヴェンの音楽を、全曲聴いたという人は、居ないだろうと思うし... 続きをみる
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現在のCDの収録時間の長さは、およそ、80数分というところだろうか。この長さは、じつは、ベートーヴェンの第九がまるっと入る長さが基準で、この基準を提案したのが、当時のクラシック界の帝王(もう、こう呼ばれる人は、居なくなってしまったが。)カラヤンである。 曲の長さは、指揮者によって増減するから、わた... 続きをみる
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日本人の不思議なところは、思想転向と宗旨替えでは、圧倒的に思想転向の方を重視し、宗旨替えは、ほとんどファッションを変えるくらいにしか考えていないところではないかと思っている。 結婚による宗旨替えは、特に、女性の方は当たり前なものとして、慣行されているし、宗教がどうだからという理由で、結婚が破談にな... 続きをみる
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あるクラシック音楽番組で、ベートーヴェンの曲のランキングを、人気投票形式でやっていた。日本人は、相撲の番付のような伝統のある国のせいか、ランキングがともかく好きな国民である。 Excelには、さまざまな関数機能があるが、これは、その人の好きな関数や嫌いな関数に分かれるようである。わたしは、いずれも... 続きをみる
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何でも、今年はベートーヴェン生誕250周年の年だそうで、ベートーヴェンに関する話題が多いそうである。 わたしは、ベートーヴェンのカルテットについては、不思議な聞き方をしたと思っている。先ず、いきなり、あの後期のカルテットを聴き、十五番のリディア旋法の箇所を除いて、まるで分からなかったこと。 それか... 続きをみる
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エッセイ なぜ君は自分自身に対して最良の友人になろうとしないのか
アランの「幸福論」に見える言葉である。 また「前向き」や「プラス思考」など、現在、流行している多くのことばの源泉になったのが、アランの「幸福論」である。 アランは哲学者というより、フランス流に「モラリスト」という方が適当な人で、人間的な考察を、単に、哲学的考察に終えないで、そこから先、どのような心... 続きをみる
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吉田秀和は、この曲について、ある人の言ったことばとして「心はたしかに踊っている。ただ、それは喜びのためではない。」という文章を寄せている。 わたしには、これほど矛盾した性格が、何の苦渋も見せずに、自然と一丸となった曲は、他にまるでないように思える。無理に言ってみれば、明るい暗さ、軽快な重さ、死と同... 続きをみる
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文科省は、「一所懸命」を「一生懸命」に改めたが、これは若い人ではなく、多くのお年寄りが、書き間違いをしたからである。 現在、多くの老人が誤って使う言葉に、「汚名挽回」がある。これは、汚名返上と名誉挽回をごっちゃに覚えてしまった明らかな間違いなのであるが、とても多くのお年寄りが、勘違いして覚えている... 続きをみる
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わたしは、法律の条文が苦手である。と言うより、自分のような文学に馴染んだ頭からすると、とても、不思議な文章に見える。人がことばを操るのではなく、言葉が人を制御するという、まったく逆用の言葉の使い方だからである。 ことばが人を縛るというので、思い当たるもっとも古い言葉は、十戒であろうか。ただ、これは... 続きをみる
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徒然草は明るい ○ この明るさは、兼好の人柄に拠るというようなものではないようである また、仏者の悟り済ました心境というものでもない ○ 岩波文庫版では、「あやしうこそものぐるほしけれ」<序段>の現代語訳として、「妙に馬鹿馬鹿しい気持ちになるものだ」とある わたしは、ここに貴重... 続きをみる
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ロマンチストだと言われて怒る人 ○ リアリストだと言われて喜ぶ人 ○ どちらも言葉に過ぎないということを 知っている人 ○ 三島由紀夫はロマンチストであったか、それとも、リアリストであったか これが、空漠たる問いであることを知るのは、大事なことである
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内田光子さんには、申し訳ないが、このモーツァルトの子供用の練習曲としてよく弾かれるピアノ・ソナタを、内田さんので初めて聴いたとき、思わず、笑ってしまったことがある。 その時は、内田さんについてよく知らず、国際的な評価を得ている日本を代表するモーツァルト弾きのピアニストであることは、後になって、よう... 続きをみる
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日本の自然は、そのほとんどが、人間の手が加えられて成り立ったものである。手を加えると言っても、欧米などとは、その手の加えられ方がまるで違う。 日本は、物事の流れというものを重視し、その流れに沿って、自然に手を加える。つまり、時代や社会というものと歩調を合わせて、自然と付き合うように手を加えようとす... 続きをみる
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南方熊楠の言葉である。 わたしは、ここ20年来、ある縁から、付き合ってきた友人がいる。友人とは言っても、わたしが家庭教師役で、彼は生徒役であった。わたしは、その付き合いを大事なものと思っていたが、コロナ禍のこともあって、疎遠となり、ここ十ヶ月ほど会っていない。仲違いしたわけではないが、電話連絡も途... 続きをみる
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一時代前のことだが、オノマトペはいけないと、盛んに言われたことがあった。これは何に由来しているかというと、他の外国語に訳しにくいのと、特に、ロシア語には、ほとんどオノマトペがない、にもかかわらず、近代ロシア文学はあんなにも高みに行くことに成功した。オノマトペが、いけないという理由としては、これ以外... 続きをみる
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日本には、北海道の原野や富士の樹海を除いて、いわゆる大自然というものはない。日本の自然は、どの自然を取り上げてみても、人間の営みとともに出来上がってきたものである。 紅葉やさくらの写真などで、とても、繊細な枝振りが捕らえられているものを見ると、すぐに、これは、日本の自然だなと分かる。これは、繊細な... 続きをみる
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現代、よく「自分を表現しろ」とか「自分を出せ」とか、盛んに言われるが、わたしは、少し、薄気味の悪いというか、ある意味でどうかしている風潮のように感じている。 当たり前なことを、言わせてもらえれば、自分などというものは、そもそも、取り立てて言うに足りないものであるのは、動かぬ常識と言っていいものだろ... 続きをみる
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「明治は遠くなりにけり」は、誰でも知っている、有名な文句だが、これは一句目がまったく看過されてしまった、言わば、トルソの句である。 降る雪や明治は遠くなりにけり 草田男 が、本来の句なのだが、わたし自身が「降る雪や」の一句目は知っていたのだが、誰の作かについては、頓着しないで過ごしていた。今、ネッ... 続きをみる
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わたしの生活を振り返ってみると、高校生や浪人時代の時に読み、出会った数々の本が、その後の生活の抜き差しならない、わたしの軸になっていることを、強く思う。 中でも、特に感動したドストエフスキー、トルストイ、小林秀雄などの人の見方、物の考え方は深く、わたしの中に根を下ろし、今の歳になっても変わらなく持... 続きをみる
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この言葉は、戦国時代の動乱期から、江戸時代初期によく使われたことばだそうで、今の世の中の「一人ではないよ」というメッセージソングなどに使われることばとは、正反対に見える言葉だが、あまりにも対極的なことばなので、掲げてみたくなった。 戦国期は、言わずと知れた、自分一人の力のみが頼みの綱であった時代で... 続きをみる
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わたしは、専門家という人は尊重している者だが、文芸や芸術においては、専門というものを信じられない人間である。その道のプロとは、昔言葉に過ぎないと言ったら言い過ぎかも知れないが、文芸を鑑賞するとき、どこに、専門センスが必要な文芸や芸術があるだろうかとかんがえてしまうのである。 素人とは言うが、現代の... 続きをみる
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秋の田の刈り穂の庵の苫をあらみわが衣手は露に濡れつつ 巻頭第一の天智天皇の御歌であるが、ある小倉百人一首の本を読んでいたら、この田の刈り番をする歌は、身分の低い農民の歌だとする解に出会った。 わたしは、この解にはまったく不審であった。大岡信の恋歌とする解も頂けなかったが、良い所まで、行っている解な... 続きをみる
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自慢になってしまってはいけないが、わたしは、いつの間にか、人から持ち上げられてしまうことが多い。 学生時代は、いつも本ばかり読んでいる学生だったが、確か、二年生の夏休みが終わって、二学期が始まろうとするときに、いきなり、その学科の級長に選ばれてしまったことがある。級長とは言っても、名前だけの何もす... 続きをみる
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中国は、あれだけの大国でありながら、つい最近まで、他国を支配したり植民地化したりした歴史がない、不思議な国である。 わたしは、万里の長城が中国のお国柄というものを、象徴的に表しているものとかんがえている者だが、あれは教科書などで、北方蛮族に対する備えなどとしているが、わたしは、この常識をうたがう者... 続きをみる
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仁は、五徳<五常>、八徳の筆頭に置かれる徳であるが、この仁という語は、不思議なほど、ほとんど熟語を作らない。 思い付く限りで言えば、仁愛、仁慈という熟語はあるが、これはむしろ、仁という意味合いを狭めてしまっている感がある。仁侠という熟語もあるが、これはあまりにも、時代がかった汚れが付着してしまって... 続きをみる
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中秋の名月が過ぎた。 そこで、この文章を書こうと思い立った。小林秀雄に「お月見」<考えるヒント>という卓抜な短文がある。 あらましを言うと、あるとき宴会を開き、若い人たちも一緒にワイワイとやっていたが、ちょうど中秋の名月の晩であったことを知る。誰からと言うこともなく、みんなが月を見上げ、黙り込んで... 続きをみる
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女性の胸の良さは、大きさではなく、その佇まいにある。 ○ 性という仄暗さ ○ かつて、わたしは、性を闇と表現していたが、今、改めて思い返すと、男女の間に見事な橋が懸かっているとき、そこから、ほのかな光が差しているのが感じ取ることができる。 ○ 性は闇とは、未成年か不倫... 続きをみる
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以前にも、江戸時代の記事で触れたが、日本の江戸時代には、じつに目を見張るようなものがある。 その一つが、塾である。家康は、国教として儒教を選んだのだが、神君と呼ばれるだけあって、この選択は非常な慧眼以上のものがあると言って良いだろう。 平和な時代の教えとして、これに勝る教えはないと、とてもするどい... 続きをみる
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人生をある観念で単純化するのは容易い。例えば、「金はすべて」「世界は共産化すべき」「世界の民主化」 そうした人々は、金に酔い。理に酔うたのである。 ○ 生活の諸問題は、金でほとんど解決する。その通りである。その代わり、人生の諸問題は、まるで手付かずのままである。 ○ 生活に困窮... 続きをみる
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中国に行って、空港に降りたったとき、その中国のにおいの強さに驚いたものである。慣れるまで、小一時間くらいかかったと記憶しているが、中国にいる間中、時折、鼻につくその独特の匂いには悩まされたものだった。 添乗員さんに聞くと、あれは八角のにおいだということで、そういう日本だって、外国の人から、言わせれ... 続きをみる
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わたしは、一人暮らしで、よく自炊をしているが、最近はあまり面倒なものは作らない。前は、カレーなどを作って、よく食べていたが。 それで、思うのだが、カレーのルーは、どうしてまた牛肉のときも、豚肉のときも、鶏肉のときも同じなのだろうと、首をひねるのである。 現今、これだけ、食生活が豊かになったというの... 続きをみる
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一卵性双生児を例外として、顔は、その人を他の人と振り分ける、指紋のようなものである。人と人を簡便に区別することにおいて、これに勝る身体的特徴はないと言っていいだろう。 これは、誰が見ても、その人かどうかの見分けが付くもので、よほど、注意力が散漫な人でない限り、まず、区別できないということはない。あ... 続きをみる
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夕日より思ひを焦がす赤やあるなほ燃えんとす君の唇 上記の短歌は、わたしが若い頃に作ったものを、若干手直しした歌である。 この以前は、 夕日より強くはげしき赤やあるなほ燃えんとす君の唇 であった。 推敲とは言ったが、果たして、どちらがいいのか決め兼ねているところである。こうした恋歌は、わたしは少しし... 続きをみる
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わたしは、小倉百人一首については、一般的な解説書の類いの本と大岡信のものを読み、大岡の本は得るところが大きかったが、この歌抄を全体として、掴んでいるかどうかということについては、疑問が残った。直言すると、大岡の読みは、恋愛というものに偏りすぎているように思えたのである。他の解説書では、この歌抄のそ... 続きをみる
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わたしのブログ名は、上記の通り、「Hideのおすすめ本・・・」で、ハンドル名(こういう言い方でいいのかな)は、Hideharuであるが、これはわたしの実名ではない。 ブログをはじめるとき、どうしたものかと、色々と名前は考えたのだが、やはり、わたしの尊敬しているひとから、名前の一部を取ろうと、それで... 続きをみる
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稲妻のゆたかなる夜も寝べきころ 汀女 わたしは、汀女の句集は、読んだことがないが、虚子や大岡信の本の中で紹介されていて、この句を知った。 なんでも、ある女性俳人が、「雷」の題で、句を詠もうとすると、この汀女の句が浮かび上がって来て、どうにもならないと俳句の師匠に、その苦衷を訴えたそうである。 わた... 続きをみる
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和歌によるミクロコスモスと言って良い、日本人や日本語ができるような人なら、誰でも名前なら知っている、藤原定家の編集者としての天才が如実に表わされた、見事な和歌集である。 こう言って置いて、後は、はずかしい話になってしまうのだが、じつは、わたしはこの和歌百首をすべて諳んずることができない。気の利いた... 続きをみる
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朝顔を一輪出だす利休かな この句であるが、少し前の記事に、忍び込ませて置いたのだが、成功している句かどうかについては、見巧者というような人の判断に委せることにして。 これには、前置きになる物語があるので、それを語ってみたい。 千利休が、秀吉に、その当時観賞用として、流行り出した朝顔を、お目に掛ける... 続きをみる
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有名な本で、この本に影響を受けたという人も、多いと承知しているが、わたしは、この「悪の華」には、まるで不感症だった。 岩波文庫版で、読むには読んだのだが、何が良いのかさっぱり分からなかった。近代の毒を凝縮した書物だとは、聞き知ってはいるのだが、はて、それでというような感じで、如何にわたしがぼんくら... 続きをみる
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「知は力なり」とは、イギリスの哲学者ベーコンのことばであるが、儒教でも、「知」を徳として五徳の中に入れている。 西洋と東洋では、知というものの捉え方がまるで違っていると言って良いが、そうした大きな話は、置くことにして、大まかに、東洋では知恵を主眼とした「知」で、西洋では理論を主とする「知」と取って... 続きをみる
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バスに乗って、茫然と郊外の景色を眺めていた 電車では車窓からの風景というが、バスでは何と言うのだろう 川に差し掛かった当りで 強い日差しの下、川岸に植わっている木の 夏の青葉が、それぞれ、たのしげに風に揺れているように見えた 樹木の知識の乏しいわたしには、常緑樹か落葉樹かの判別も付かなかったが 何... 続きをみる