意味は、微に入り細を穿ち、これでもかと、相手が音をあげそうになるまで、尚、しぶとく、さらに念入りに、要するに、人が生きている限り、いや、たとえ、亡くなっていようとも、その人を少しでも、必要としている限り、大胆に、また、慎重この上なく、そうして、際限を知らず、問われなければならない。 ○ ... 続きをみる
聖書のブログ記事
聖書(ムラゴンブログ全体)-
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「働くということ」と「道」というものついて、相通ずるものがあるかということを、かんがえたいため、ここで、 道ということについての、欧米やイスラーム圏の人々の考え方のあらましや、その大略のところを、整理して、語って行ってみたい。 欧米の人々にとっての「道」とは、直に、聖書の神が指し示した道とかんがえ... 続きをみる
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次に、働くことに直結する、経済学という学問について、かんがえてみたいと思う。 ただ、わたしの場合は、経済学という学問には、素人の知識しか持ち合わせていないこともあり、どうしても、後に不明を恥じ、牽強付会の説を為すかも知れず、予め、そのことについては断って置きたい。素人の怖いもの知らずの論になると思... 続きをみる
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ここで、西洋風の人々の働き方を、見てみたい。聖書には、「人間にとってもっとも喜ばしいことは、大勢の親族が仲良く集まり、酒を酌み交わし、ごちそうを食べることである。」とある。また、「人間の為すべきことは、神のことばひとつひとつによって生きることである。」と。 そして、新約聖書では、職業人が登場するこ... 続きをみる
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欧米思想、また、その周辺の思想の中で、わたしがもっとも分からないと思うのは、この「裁き」の思想である。 ○ 何故また、人間は死んだ後でさえ、裁かれる必要があるのだろうか。 ○ 人間が、それほど罪深い存在だとするのは、キリスト教を中心とする、聖書を拠り所とする人々に共通する考えに... 続きをみる
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旧約聖書はあら削り ○ 新約聖書は行き過ぎ ○ コーランは中道を目指す ○ わたしの読み方 コーランは旧新聖書よりももっと、論語に似ている。 その信仰のあり方を除いては。
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聖書中、もっとも哲学的な伝道の書には、人生の喜びとして、自分と血の繋がる親族が大勢集まって、酒を飲み、ごちそうを食べることの他に、生きる上での喜びなど、あろう筈がないという意味のことが、書かれてあったと記憶している。 論語の「学ぶ喜び」というものなどには、まるで、頓着されていないのが、却って、興味... 続きをみる
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聖書には、深刻な表現が多いが、その一つとして、 義人ヨブは、神から手酷い試みを受け、その理不尽な苦しみの最中に、「わたしの誕生日は呪われろ」と、ぎりぎりのことばを吐く。 自らの生まれた日を呪う、この表現は、深刻そのものであって、他の聖書以前のどの古典にも、見出せない恐るべき呪いの言葉と言って良い。... 続きをみる
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聖書にはこと浅からぬ言葉あり真昼といふに道に迷えり お笑いを見しその後の侘しさよ エアコンの効きし部屋にて句首詠みぬ
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ベルクソンの遺書と言える著作です。聖書に由来する神とギリシア哲学における神々とが混交してしまった西洋哲学の弱点とも言える神観念をきれいに解きほぐして行きます。ベルクソンは決して難問を一挙に解決することを望みません。着実な一歩を進め、後は後世の哲学に託そうとします。この著作の最後で「人類はまだ自分た... 続きをみる
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キリスト教では、先述の聖書を旧約聖書と呼んでいます。コーランも、拠り所となっているのは、聖書です。ムハンマドはイスラーム教をアブラハムの宗教だとさえ言っています。この新約聖書くらい輝かしい書物はないでしょう。古代中国ではキリスト教を景教と呼びました。「景」とは、光り輝くという意味です。イエス・キリ... 続きをみる
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アダムとイブの物語が載せられた有名な書物ですが、この書物を最後まで読み通した人は少ないことでしょう。聖書は神話ではありません。神話はその民族の永続を願って作られるものと言っていいのですが、聖書の神は、そのイスラエルの民に、もしあなた方がわたしの言葉に背くようなら、わたしはあなた方を滅ぼし尽くすであ... 続きをみる
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全応態とは聞き慣れない言葉だが、聖書(キリスト教では旧約聖書)の言葉の正訳を心掛けようとして、こういう言い方になった。もちろん、わたしの造語である。もっと、いい言い方があればそれにするのだが。 聖書中のもっとも哲学的な書と言っていい「伝道の書」の中に「金はすべてのことに応じる」という言葉が見える。... 続きをみる