Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 音楽は不思議な芸術 7<バッハの不思議さ>

わたしは、この題名の記事は、5、6編書いて終わるつもりだったのだが、バッハに掴まってしまい、なかなか、次のハイドンやモーツァルトまたベートーヴェンに行けないでいる。


思うに、バッハという人は、知れば知るほど不思議な人である。およそ世の中の芸術という芸術というものを概観してみて、このバッハに相当するような、他の分野での芸術史上の天才というべき人間は居ないようである。ただ、現在の日本では、この天才ということばの価値があまりに下落してしまっていて、ここでこう言って適切なのかどうか、迷うところだが。


ともあれ、バッハという人は、じつに不思議な人である。その芸術の広さと深さは、尋常ではないし、バッハ以前の過去の音楽に対する異常な執着と、その音楽の伝統の本質を掴んで離さず、真に新しい音楽として、練り直してみせる抜群の才能には、心底から驚嘆するばかりである。


そうして、ここが、本当に解せないところなのだが、当時の音楽界にそのバッハの姿を当て嵌めて見ると、なんと言わば、浮薄で、際物の音楽ばかりに人々の目は行ってしまっていたのかということである。生前、バッハは、ほとんどまるで理解されなかったと言って良い。


バッハの音楽は、決して謎めいてはいないし、今の耳で聞いても、例えばネーデルランド楽派の音楽のような難解なものとは言えない。正直な耳にとっては、極く当たり前に、自然と人々の耳を納得させるものである。


また、そうでなければ、今日のようにバッハの音楽は、持ち上げられなかったであろう。


そうして、思うのは、今、西洋音楽を総覧できるわれわれから見ると、バッハという人がほとんどその一人の力で、西洋音楽の脊髄を支えていると見える、その芸術としての有り様である。どの世の中の芸術においても、こうした不思議な姿は見られない。これは、ジーザスが、ほとんどその一人の力で、西洋文化を支えているかに見える、その姿を彷彿とさせるものがあるのである。


イエス・キリストは磔刑となったが、バッハは清貧に甘んじたと言えば、そうなのかも知れないが。


ともかくも、まだ、バッハについては、言い足りないように感じてならない。