クラシック音楽がよくかかる、ある病院の待合室で、モーツァルトが聞こえてきた。聞き耳を立てると、ピアノ協奏曲20番第2楽章ロマンスだった。 この曲は飽きるほど、聞いたものなのだが、モーツァルトの音楽で、飽きがくるということは、K525以外には絶対にないことなので、そのときの、待合室はほぼ満員の状態だ... 続きをみる
クラシック音楽のブログ記事
クラシック音楽(ムラゴンブログ全体)-
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モーツァルトの音楽は、およそ、どのような形容詞も跳ね返してしまうというのが、その最大の特徴ではないかと、わたしは思っている。中国の古典中の古典、「論語」と同じように。 小林秀雄がアンリ・ゲオンから引用した、「疾走する悲しみ」は名高いが、わたしには、これは特に、ト短調40番シンフォニーの特徴を言い表... 続きをみる
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たとえば、画家は自分の描いた絵を見せて、感動なりしてもらうことが、可能だが、作曲家となると、自分の真価を発揮した音楽を聴いて貰うとなると、自身で演奏可能なような、ピアノソナタなどは措くとして、どうしても、演奏家という人種が不可欠になる。 それで、ヘタに演奏されたりでもしたら、そこで音楽は終わりであ... 続きをみる
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ベートーヴェンの力業が、存分に発揮された名曲として、見るのが、一般のようだが、わたしは、少しばかり別のかんがえを持っているので、そのことをここに書いてみたい。 ベートーヴェンの力業が、随所に見られる名曲であることは、わたしも異存はないのだが。 わたしは、この第五は肝心かなめな箇所で、自分の力業には... 続きをみる
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「悪魔のトリル」という有名な曲がある。その題名から、どんなに凄まじい旋律だろうかと、その曲を聞く以前は、怖気させ感じられたものだったが。 実際に、聞いてみたら、どうということはなく、小悪魔的な女の子が、少し顔を覗かせたという程度であった。 それよりも、モーツァルトの音楽全体を、悪魔の仕業と見做す、... 続きをみる
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ただ単に、言わば、郊外の隘路を辿っているだけの旋律のように見えながら、まるで、音楽全体が漣を打っているように、聞こえる、充実感 ○ ベートーヴェンは、確かに中心を意図して外している ○ 初期、中期に多く見られる、まん真ん中に、デンと構え、英雄叙事詩を高らかに歌い上げる、希代の巨... 続きをみる
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コレルリの音楽は自省のために リストの音楽は歓衆のために ビゼーの音楽は女のために
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じつは、わたしは40代になるまで、ブラームスについては、しっかりと聞く機会を持たなかった。 ブラームスのバイオリン協奏曲やピアノ協奏曲が、こんなに良いものだとは、CDを買って聞くまで、気が付かなかった。わたしは、ブラームスについては、何故か、交響曲ばかりに目が行ってしまっていたのである。 その交響... 続きをみる
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好みから行くと、わたしはショパンの方が好きである。 ショパンは詩人で、シューマンは芸術家であるとは、誰かが言った有名なことばだそうだが、どうも、わたしは詩人が好みであるらしい。 ショパンを聞いていると、誰か理想的な聴者でも良いが、そうした人が傍らに立って、一緒にその音楽を聞いてくれるという気がする... 続きをみる
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かなり以前の記事でも、触れたのだが、リパッティという早逝したピアニストがいたのだが、この人の演奏は、グールドやグルダ、ミケランジェリ、ホロヴィッツと同じくらい、または、それ以上によく聴いている。 この人は、コルトーというピアニストがショパン・コンクールの審査員だったとき、リパッティを第一位に推した... 続きをみる
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不思議な本である。 西洋音楽史とLP盤のクラシック名演奏集が一体になったような本であるが、およそ、この本の半分を割いている、バッハ以前のクラシックにのLP盤は、この本が新潮社から発刊されている頃に、すでに、ほとんど廃盤になっている。 わたしは、何を隠そう、この本で、クラシック音楽を聴く、手ほどきを... 続きをみる
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「Masters Of The Strings」と銘打った、10枚組の廉価版のCDを通販で買った。 もっとも新しい録音で1936年という年代ものだから、音質は、当然のごとく期待していなかったが、エンジニアたちの努力の成果だろうか、それなりの音がするのには、驚いた。 ヴァイオリニストを見ていくと、メ... 続きをみる
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ベートーヴェンが表現することに成功した、この言わば、精神の極致の手応えは、じつに確かなものなので、およそ、精神というものに少しでも、興味を抱くような人なら、この音楽に接して、何かを得られないということは、かんがえられないような音楽である。 ○ そうして、ベートーヴェンの生きた時代を思い合... 続きをみる
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これら東洋精神の精髄を表現していると言われる音楽のそれぞれは、それだけでも、驚くべくことなのだが、それらが、西洋音楽のイディオムの枠組からまったく逸脱せずに、完璧に成立している様を、見て、驚嘆しない方がどうかしていると、言える音楽である。 ○ このベートーヴェンの諸作品から見ても、楽器に... 続きをみる
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ベートーヴェン 後期のカルテット これほど永遠ということばを、実質あるものとして、感じさせる音楽は他にない ○ 驚くべきことに、この音楽には始まりもなければ、終わりもない ○ 音楽が鳴っているところで、沈黙し、音楽が沈黙するところで、鳴っている ○ わたしは、この音楽... 続きをみる
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第六番は、ブランデンブルグの中でも、もっとも渋い、鄙びた曲と言って良いと思う。 編成に、ヴァイオリンが入っていないこともあって、軽快さに欠けた、悪く言えば、鈍重な印象を与える曲である。 わたしは、色々な人の指揮でこの曲を聴いたのだが、その中でも、一番ピッタリと耳に響いたのが、レオンハルトという人の... 続きをみる
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「月光」を聴きてハミングする子どもベートーヴェンと知りて驚く ※今日もなんやかやありまして、これだけです。どうぞ、よしなに。
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確かな人の確かなことばを聞く、これ以上ためになることはちょっと他にない ○ クラシック音楽の名演は普段聞く音源もクラシックである
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最近、わざと、クラシック音楽を聞かずに、過ごしている。 それで、どうということはないのだが、いざ、そんな風にクラシック音楽から離れてみると、頭の中で、クラシック音楽が鳴ると思いきや、ほとんどそうしたことは起こらず、昔よく聞いた、ポップスやフォーク、ロックばかりが、頭を過ぎる。 わたしが愛してやまな... 続きをみる
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現在のオリンピックのバッハ会長は、その名前から、音楽家のバッハの血筋の人であるのは、まず、間違いないだろうと思う。 バッハは子沢山で、多くの子孫を残したことでも、有名で、また多くの音楽家を輩出したことも知られているが、肝心の大天才ヨハン・セバスチャンが生前、ほとんど認められなかったことが影響してか... 続きをみる
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モーツァルト好きの人については、ある偏向というものがある。モーツァルトが好きな人々が、まず、譲らないこととして、モーツァルトの最大の理解者は、他ならぬこのわたしだという、ある意味で、純粋と言って良いような思いである。 これは、モーツァルト好きには、共通する傾向と言って良く、モーツァルトが好きな人な... 続きをみる
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スマホで、クラシック音楽の、しかも作曲家を選んで聴くことができるアプリがあったので、興味が湧き、モーツァルトならと、一ヶ月500円也で、聴いてみたことがある。 中には、モーツァルトで聴いたこともないような曲が流れてきたりして、それは良かったのだが、どんな編集方針なのか、30分に一度は、あのK626... 続きをみる
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エッセイ モーツァルト K525 <アイネ・クライネ・ナハトムジーク>
おそらく、モーツァルトの中で、モーツァルの音楽をよく知らない人を含めて、もっとも知られている曲は、この曲であろう。わたし自身、クラシック音楽にのめり込む、最初の頃は、この曲に熱中したものである。 けれども、この曲は、クラシック音楽に詳しい人なら、誰でも知っていることなのだが、モーツァルトの作曲した... 続きをみる
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わたしは、平均律クラヴィーア曲集は、リヒテルのピアノで聞き初めた。それというのも、吉田秀和さんが「一生持っていて、聴くに耐える演奏」と太鼓判を押している演奏だったこともある。 学生時代だったが、その言葉を文字通り受け取って、これは素晴らしい演奏なんだと、自分に言い聞かせるように、聴いたものだった。... 続きをみる
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このモーツァルトの最後のピアノ協奏曲は、わたしは、最初に、ベームとギレリスとウィーン・フィルのLPで聞いた。吉田秀和さんが推薦していたLP盤で、吉田さんはこのLP盤の演奏を、しきりに誉めていたが、わたし自身は、27番に関しては、なぜこうも、虚無的な演奏をするのだろうかと訝ったものだった。 このよう... 続きをみる
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モーツァルトは、ごく小さい頃から、父に連れられて、まるで旅芸人のように様々な国へ、旅行しているが、これは、父の意向であり、レオポルトは自分の息子を成功させてやろうという野心に燃えていたであろうが、幼いモーツァルト自身にとっては、そんな野心は、言わばどこ吹く風というものであったろうと想像される。 旅... 続きをみる
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前の記事で、カストラートについて少し触れたが、この去勢された男性歌手について、やや詳しく述べてみたい。 ご存知の通り、男は思春期を迎えて声変わりをするが、カストラートという歌手は、この声変わりを人為的に抑えた超ハイ・テナーの歌手である。 声変わりをする前の少年は、女性のような声をしているが、そうし... 続きをみる
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わたしは、この題名の記事は、5、6編書いて終わるつもりだったのだが、バッハに掴まってしまい、なかなか、次のハイドンやモーツァルトまたベートーヴェンに行けないでいる。 思うに、バッハという人は、知れば知るほど不思議な人である。およそ世の中の芸術という芸術というものを概観してみて、このバッハに相当する... 続きをみる
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ヘルムート・ヴァルヒャという盲目のオルガニスト、チェンバリストがいたが、わたしはバッハのオルガン曲は、好んでこの人の演奏で聴いている。 この人は、盲目でありながら、バッハのあの膨大な鍵盤曲のすべてを、暗譜してしまうほどの驚異的な記憶力の持ち主であったが、わたしはそうした理由で、この人の演奏を好んで... 続きをみる
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音楽は、果たして、至上の芸術であるか。 「すべての芸術は音楽になりたかった」というショーペンハウアーのことばは有名で、これに異論を唱える人も少ないようだが、現在、音楽が享受しているこの破格の待遇は、確かなものかどうかを、問うてみるのも面白いかも知れない。 思うに、音楽は、区分けを嫌がる芸術であるよ... 続きをみる
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かなり以前の話だが、井伏鱒二がテレビに出ていたとき、インタビュアーから、カラオケというものを知っていますかと問われ、答えられなかった映像を流していた。 これは、作家という職業にとって、名誉なことか不名誉なことか、微妙なところであろうか。 わたしは、ほぼ、聞く音楽はクラシック音楽であるが、カラオケに... 続きをみる
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ヘンデルの音楽が、特に合唱などでよく見られる多声的という性質において、素晴らしいものであると、わたしはかんがえるのであるが、個としての感情を、掬いとってくれる音楽であるかどうかとなると、疑問符がつくように感じる。それこそ、プレロマン的な性質であるが、個の喜びや悲しみも、十二分に表してくれる、バッハ... 続きをみる
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西洋音楽史を眺めていると、まるで、音楽はバッハからはじまっているような錯覚を覚えるが、これは、その過去に前例がないくらい、非常な深さと大きな広がりを持った音楽を、バッハという一個人が書いたためで、上記の形容は、単なるわたしの主観的な感想というものではなく、そうした音楽であることを、歴史の過酷な荒波... 続きをみる
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クラシック音楽史を見ていると、不思議だなと思うことがよくある。言うまでもなく、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンというように西洋音楽の伝統は流れて行くのであるが、これは、言わば後付けの、純粋な音楽史的解釈であって、この中で、実際に生前から認められていた音楽家はと訊ねると、まるで、様子が... 続きをみる
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音楽について、語ったり語られたりする際、わたしは注意することがある。音楽について言われたその言葉が、ちゃんとその人自身の詩となっているかどうかということである。 ごく若い頃だが、名前はとうに忘れてしまったが、あるクラシック音楽の評家と称する人の文章を読んだことがある。そこには、ある有名な音楽家の曲... 続きをみる
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音楽、殊にクラシック音楽について語ろうとすると、音楽についての教養がどれくらいだとかという話になりがちなのが、かなしいところだと思っている。 もちろん、音楽的な教養がしっかりしていることは、慶賀なことではあろうが、調性とか、この音は何調の何音などの基本的な音楽知識はあっても、クラシック音楽などは、... 続きをみる
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ミケランジェリという名ピアニストがいたが、この人の実況録音の演奏が廉価で発売されていたので、買い漁ったことがある。 聞いて、まず、驚いたのは、観客たちの咳払いの激しさと、そうした雑音をまるで意に介していないように聞こえる、ミケランジェリの超然としたピアノ演奏である。 ほとんど、わざとしているのはな... 続きをみる
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クレンペラーという指揮者は、この曲は、音楽が鳴っている箇所は、ほぼ一時間ほどであるから、レコード一枚分で宜しいと、音楽が鳴っていない箇所はすべて削って、レコード一枚にして、世に問うたそうである。 クレンペラーという人は、大指揮者で、この人がいたお陰で、確かNBCオーケストラという立派な交響楽団がで... 続きをみる
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このオルガン曲は、わたしも、ご多分に漏れず、中学の音楽の授業で、初めて聞いたのだが、初聴したときの感想は、よく覚えている。 こんなに大きな曲なのに、なぜ、小フーガなどと「小」という題名がついているのだろうという違和感が先に立ったものだった。 4、5分ほどの曲に過ぎないのに、この圧倒的な大きさは、い... 続きをみる
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生誕250周年ということで、何かと、ベートーヴェンについての催しがあるそうだが、わたしも、それに乗っかる形で、ベートーヴェンについてのかんがえを、少し纏めてみたいような気持ちになったりする。 クラシック音楽の愛好家でなければ、まず、ベートーヴェンの音楽を、全曲聴いたという人は、居ないだろうと思うし... 続きをみる
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現在のCDの収録時間の長さは、およそ、80数分というところだろうか。この長さは、じつは、ベートーヴェンの第九がまるっと入る長さが基準で、この基準を提案したのが、当時のクラシック界の帝王(もう、こう呼ばれる人は、居なくなってしまったが。)カラヤンである。 曲の長さは、指揮者によって増減するから、わた... 続きをみる
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あるクラシック音楽番組で、ベートーヴェンの曲のランキングを、人気投票形式でやっていた。日本人は、相撲の番付のような伝統のある国のせいか、ランキングがともかく好きな国民である。 Excelには、さまざまな関数機能があるが、これは、その人の好きな関数や嫌いな関数に分かれるようである。わたしは、いずれも... 続きをみる
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何でも、今年はベートーヴェン生誕250周年の年だそうで、ベートーヴェンに関する話題が多いそうである。 わたしは、ベートーヴェンのカルテットについては、不思議な聞き方をしたと思っている。先ず、いきなり、あの後期のカルテットを聴き、十五番のリディア旋法の箇所を除いて、まるで分からなかったこと。 それか... 続きをみる
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吉田秀和は、この曲について、ある人の言ったことばとして「心はたしかに踊っている。ただ、それは喜びのためではない。」という文章を寄せている。 わたしには、これほど矛盾した性格が、何の苦渋も見せずに、自然と一丸となった曲は、他にまるでないように思える。無理に言ってみれば、明るい暗さ、軽快な重さ、死と同... 続きをみる
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内田光子さんには、申し訳ないが、このモーツァルトの子供用の練習曲としてよく弾かれるピアノ・ソナタを、内田さんので初めて聴いたとき、思わず、笑ってしまったことがある。 その時は、内田さんについてよく知らず、国際的な評価を得ている日本を代表するモーツァルト弾きのピアニストであることは、後になって、よう... 続きをみる
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クラシック音楽界では、神様とまで呼ばれた名ピアニスト「ウラジミール・ホロヴィッツ」です。 この人のスクリャービンの練習曲とベートーヴェンの「熱情」には驚嘆したものでした。 2020年作です。
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教会にバッハのオルガン響き渡りアンナは聴くや恋心もて シューマンのあやうき心支えたるクララのごとき妻はいずこに 雨やみて鳥の声する梅雨の入り
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バッハはどこまでもまっすぐで超越的。 ベートーヴェンは入り組んでいて形而上的。 モーツァルトは全方向的で自然、そして、ときに無方向的。 モーツァルトの音楽の形容には、いつも、ピッタリとした言葉に欠ける。
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西洋音楽に精通し、よくよく総覧した著者は、音楽には、よく言われるような「進歩」や「進化」などというものはなく、あるのは「メタモルフォーゼン<変容>」であると結論付けます。このことは音楽に限らず、芸術一般においても敷衍して言えることなのかも知れません。指揮者や音楽評論家としても活躍した著者の優れた音... 続きをみる
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ホロヴィッツという名ピアニストは、ミスタッチは演奏の本質ではないということばを残している。これは色々と考えてみる余地のあることばで、今の世の中では、正確ということが、いつの間にか、何に増しての権威として君臨してしまっている。 およそ、ライブ演奏において、一音も音を外さないということなど、希有なこと... 続きをみる
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モーツァルトの音楽を語る者は、誰でもその自然さを言うが、モーツァルトの自然は西洋の中でも、特筆されるべき自然である。 これは比喩によって語るしかないが、例えば、日が翳り、それとともに心がそこはかとない憂いを帯びる。または、落葉の降りしきる中を、少女が無心に踊っている。そのような無垢な情を伴った自然... 続きをみる
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アランは二十才まで正式な音楽を聞いたことがなかったと言っています。この書は、そのアランが音楽についての造詣を深め、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを素材として、縦横に語った書物です。調についてのそれぞれの興味深い性格付けが為されていますが、アランは、調の性格付けがもっともむずかしい仕事だったと... 続きをみる
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セザンヌが好きである。だが、セザンヌの名作と言われるものは、そのほとんどを、金持ちが持って行ってしまい、一堂に会して見ることができないものになってしまっているのが、現状である。 画集だけで、セザンヌの絵を判断するのは危険だということは、分かり切った話であるが、さて、セザンヌの本領を発揮した本物をじ... 続きをみる
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少し前の話で恐縮だが、この曲はたいへん好きで、よく聞いていた。 亡くなった本田美奈子さんも歌っていたが、「ああいう細い子じゃなくて、それこそテキサス辺りのでっぷりとしたおばちゃんに朗々と歌い上げて欲しいね」と言ったら、ある人から「それなら、スーザン・ボイルのを聞いたらいいよ。」と言われ、早速You... 続きをみる
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第3楽章が有名なトルコ行進曲のピアノソナタであるが、わたしが注目したいのは、第1楽章のそれこそ出だしのところである。 とても単純で、きれいな旋律なのだが、わたしはここに、比喩になるが、何か異様なまるで大きく口を開けた怪物に吸い込まれていくような、または、底の知れない深淵をのぞき込んでいるような不安... 続きをみる
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うつつなき世をたのもしと思ほはばマタイ受難を聴くことなかれ カラマゾフ十七の春炸裂す 暑き日の地下への降下罪と罰 真の実在というものに出会いたい それならモーツァルトのジュピターを聞き給え
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十五分ほどのオルガン曲だが、わたしが始めて、バッハの音楽に触れ得たと思ったのは、この曲だった。この曲には、甘く人を酔わせるような音は一音もない。 学生時代、ある本で推薦されていた、この曲のレコード(当時はCDではなく、レコードだった)を買って聞いたときのことは、よく覚えている。いや、はじめて曲を聞... 続きをみる
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ピアノ鳴る小暗き部屋に情念のほむらかがようロベルト・シューマン ヤナーチェク朱離鴃舌(しゅりげきぜつ)すプラハ春 半獣神口あけておる午睡かな 秋の夜たとえば耳を切るゴッホ ゴーギャンの赤罪の色夏の色
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日なた日陰小春日和の散歩道 眺め入る空には秋や信号待ち 部屋を出でずこころ散らかる日曜日 <無季> 寒風にひとり吹かれて帰り道 雷鳴やひとり過ごせる部屋に風 レクイエム聴くよしもがなかの日にはモーツァルトは死にたりければ 聴くも良し聞かずともよしレクイエムモーツァルトは生きたりければ
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ゼルキン&アバドのモーツァルトのピアノ協奏曲集を聴き込んだ。ゼルキンは亡くなってしまったが、これが彼の最も良いモーツァルトの演奏となったようだ。ゼルキンはモーツァルトのピアノ協奏曲は弾くのだが、モーツァルトのピアノソナタの方はほとんど弾いていないようで、わたしは寡聞にして知らない。あんなにモーツァ... 続きをみる
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名前は忘れたが、わたしの心の中で、良く思い出されるある女流作家の言葉がある。 「自分は、モーツァルトやベートーヴェンになれるような才能はない。だから、作家なんていう商売は辞めて、人生を楽しもうと決めたのだ。」と 人が自分で決めた人生のことだから、とやかくいう義理はないのだが、この言葉を聞いて何か釈... 続きをみる
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世界的な指揮者となった小澤征爾が、若い頃ヨーロッパに渡った時のことを自伝風に纏めた本です。オートバイの後に日の丸の旗をなびかせて、ヨーロッパの街を疾走する自分の姿を書いたくだりは、なんとも微笑ましい意気盛んな若い日の小澤の姿があります。爽快な心意気に溢れたこの本は、若い人にはぜひ読んで欲しい一冊で... 続きをみる
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ベートーヴェンにしては、思わせぶりな曲だと長年思ってきた。 グールドもベートーヴェンのアパッショナータが何故あんなに人気があって名曲と言われるのか、訳が分からないとどこかで言っていたが、グールドの言うことは、半分眉に唾をつけて聞かないといけないから、素直に賛同はしていなかった。 それで、つい最近、... 続きをみる
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わたしは、モーツァルトの「レクイエム」が好きでよく聞くという人が、信じられない人間である。先日も、モーツァルトの「レクイエム」が好きでよく聞いているという人に出会ったが、わたしは、この人はモーツァルトという人と音楽をまるで知らないなと心ひそかに思ったものである。 安藤美姫だったと覚えているが、「レ... 続きをみる
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「ニーベルングの指輪」には驚嘆した。近年ない感動を味わった。この歳になって、こうした感動を得るとは、いや、音楽の世界はじつに広いと改めて感じ入った。 ワーグナーが好きで、ワグネリアンという人たちがいることは知っていたが、実際、その人たちの気持ちも分かるような気がした。音楽の表現力の、モーツァルトと... 続きをみる
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演奏は単なる解釈ではなく、高度な創造的営為であることが、このリヒター盤の「ブランデンブルグ協奏曲」で知られる。 ブランデンブルグには、他にも、ピノックやアーノンクール、レオンハルトのよい演奏があるのだが、(カザルス盤もあるらしいが、わたしは聞いたことがないので)このリヒター盤がブランデンブルグを演... 続きをみる
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シューリヒトの音 いったい、指揮者が変わるだけで、オーケストラの音は変わるのだろうかという根強い俗見があるが、その問いに答える目覚ましい実例が、シューリヒトであると言えると思う。シューリヒトが主に指揮した楽団は、パリ・オペラ座管弦楽団で、ヨーロッパでも一流のオケとは言えない。ウィーンフィルやベ... 続きをみる
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現在、日本のピアニストで、こんなに見事にモーツァルトを弾きこなせる人は、彼女くらいだろうと思って、好んで聞いている。協奏曲のアルバムの謳い文句には、Greatという言葉が使ってあったが、その言葉を少しも裏切らない非常な出来映えである。モーツァルトのピアノソナタのCDも、実にいい。 それにしても、こ... 続きをみる
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自我形成 自我を形成するとは、周囲から自分が切り取られることである。自我は切り取られた傷口に沿って自分を形成していくものである 寒天からナイフで小さな立方体を切り取る。 要点は、その立方体の小片にではなく、切り取られたという、そのことにある。 そうして、再び周囲と新しい関係を築くこと。自我形成とは... 続きをみる
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題名は、ベートーヴェンの有名なヴァイオリンソナタからとられています。トルストイはこの作品でクロイツェル・ソナタを徹底的に批判し、やがて、芸術一般を否定する強烈な思想を確立するに至ります。しかし、この小説で見せるトルストイの芸術家としての稟質は目覚ましく、夫が不倫をした妻をナイフで刺す場面などは、圧... 続きをみる
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この曲は、昔から気になっていたピアノ曲で、op.111のピアノソナタに心の底から感激し、もうこれ以上のピアノ曲はあるまいと思っていたときに、op.120のこの大曲があると知って驚き、聞きたくてどうしようもなかった。学生時代のことである。 最初にグルダを聞いたが、どうも納得できない。次にブレンデルの... 続きをみる
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モーツァルトの父レオポルトは、自分の息子は天才に違いないと、モーツァルトがごく幼い頃から、その手紙を後世のために取って置くように家人たちに命じました。レオポルト亡き後も、その遺訓は守られ、わたしたちは現在、膨大な量のモーツァルトの手紙を読むことができます。けれども、その手紙は、モーツァルトの音楽の... 続きをみる
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あまり、知られているとは言いがたいですが、日本を代表するピアニストです。 特に、モーツァルトの演奏に定評があります。この人のモーツァルトは、とてもよく聴いています。 2015年に描きました。
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「ドン・ジョバンニ 音楽的エロスについて」キルケゴール 白水uブックス
デンマークの哲学者キルケゴールの秀抜なモーツァルト論です。「音楽的エロスについて」という副題がついています。特に「ドン・ジョヴァンニ」を酷愛した筆者が、「石が語り始めようとする前に、私は語り始めなければならい。」と音楽について正確に語ることの不可能と、またその必然性とを表した有名な言葉で、モーツァ... 続きをみる
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ショスタコーヴィチが気になっていた。この政治的に極めて奇怪な経験をした作曲家は、つい最近まで生きていた現代人だが、ロマン主義でもなく、シュトックハウゼンのような実験的で前衛的な音楽家でもない。 シンフォニー15番はテレビのNHK交響楽団で聞いたのだが、その不思議な音が忘れられなくて、ネットで色々検... 続きをみる
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ホロヴィッツが分かるようになり、とても好きになった作曲家がスクリャービンであった。ホロヴィッツが分からなかった理由は他でもない。このピアニストが実に癖のない理想的なピアニストであることに由来していた。 ピアニストの模範といわれるほど、そのピアノを弾く姿勢から打鍵のタッチに至るまで、隙がまったくない... 続きをみる
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グールドの代名詞のような曲だが、グールドのこの曲の演奏がなぜこうも現代人に訴えかける力を持っているのか、わたしには不思議なのである。 まず、このゴルドベルグ変奏曲という曲である。この曲は、バッハの中でも、もっとも長大な鍵盤曲だが、演奏に50数分もかかるというのに、忙しくてしようがない現代人の感性に... 続きをみる
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ずいぶん前から聴いている曲だが、このピアノソナタはリパッティの演奏が一番よいと思っている。だが、リパッティはモーツァルトのピアノソナタでは、この「K310」一曲しか残していない。早逝もあるが、なぜわざわざこの一曲なのだろうと、いろいろ想像を巡らしていた。 というのは、ショーペンハウアーが「意志と表... 続きをみる
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「バッハの思い出」アンナ・マグダレーナ・バッハ 講談社学術文庫
音楽の父ヨハン・セバスチャン・バッハの二度目の妻アンナによるバッハの評伝書です。およそ、音楽家の妻として、その夫について、これほどの評伝を残せた女性はアンナぐらいでしょう。それも西洋音楽史上、最上級の破格の天才バッハであったことは、後世のわれわれにとっては、何物にも代え難い最上の贈り物となりました... 続きをみる
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ミケランジェリのピアノは輝かしい。それも表面だけピカピカ光る金メッキの輝きのそれではない。精神の内部から、放射される紛うことのない輝きである。同国のルネッサンス期のミケランジェロの描く赤ン坊が筋肉隆々としていて見る者を圧倒するように、ブラームスの曲がシューマンの曲が堂々たる風格と輝きを持った一流の... 続きをみる
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前に、ビリー・ジョエルのポップスの迷惑だったことを書いたが、このことは、ベートーヴェンについてよく考えるときの糸口になるのではないかと心付いたので、ここに書いてみたい。 わたしはそのとき、「悲愴」の2楽章についてまったく無知であったから、ビリーの声が焼き付いてしまった訳だが、ベートーヴェンの曲は、... 続きをみる
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十五分程度の曲なのだが、学生時代、はじめてこの曲を聴いたとき、そのあまりの苦さに怖じ気づき、再びこの曲を聴く気になるだろうかとさえ疑った曲である。このベートーヴェンの後期の王冠と言われる弦楽四重奏の苦さは並大抵のものではない。シェーンベルグさえ、まだまだ聴きやすいと思えるほどである。 学生時代から... 続きをみる
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エッセイ クラシック音楽雑感 「ベートーヴェンとビリー・ジョエル」
ご存じの人も多いと思うが、ビリーがピアノソナタ「悲愴」の2楽章に歌詞をつけてアカペラで歌っているポップスがある。私はうかつなことに、ベートーヴェンの曲だと知らずに、友達に勧められて、ポップスも棄てたものじゃないなと何度も飽きるほど聴いた。学生時代のことである。 困ったのは、それからである。「悲愴」... 続きをみる
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バッハのマタイ受難曲やヨハネ受難曲を聞き込んだ。 そうして、思ったことがあるのだが、そのことについて少しばかり書いてみたい。 アーチ型の橋を石組みで作るとき、アーチの下の部分をまず木組みで作り、その上に木組みに合わせて石を載せていく。その後に、木組みを取り除けば、しっかりした橋ができる。物理的に見... 続きをみる
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クラシック音楽の好きな人なら、ぜひ座右に置いておきたい一冊です。古今のクラシック音楽の中から、年代順に300曲を厳選しそれぞれに著者の卓抜で正確な評価を加えていきます。グレゴリア聖歌からシュトックハウゼン、武満徹に至るまで、クラシック音楽に対する著者の並々ならぬ造詣の深さは、単なる紹介書の域を超え... 続きをみる
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喜びはモーツァルトを聴くこと 時にふと誰かが聴いている モーツァルトの音楽に耳を澄ますことは 無上のよろこびである なんという絶対の新しさ なんという絶対の自然さ どこまでもつきぬける自由 流れ出して止まない無限のやさしさ きよらかな泉のようによどみを知らず溢れでる抒情 そうして 異様なまでの多様... 続きをみる
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バッハの音楽は神に捧げられている ベートーヴェンの音楽は人類に捧げられている モーツァルトの音楽は言葉に窮する ハイドンの音楽は美のために スカルラッティの音楽は遊戯のために メンデルスゾーンの音楽は趣味のために シューベルトの音楽は心情のために ショパンの音楽は集う人のために シューマンの音楽は... 続きをみる
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セゴビアという名ギタリストがいた。ある友達がその人のことを当然のごとく絶賛しているのを聞き、早速買って聴いてみたが、良さがさっぱり分からなかった。1930年代くらいの古い録音で、多分SP番からの復刻だろう、録音状態の悪さもあって、何がいいんだろうと思っていた。それに、演奏自体も取っ掛かりのない弾き... 続きをみる
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芸術上、あるいは宗教上に伝えられるものとして、秘伝というものがある。禅の教外別伝などは次元の違う考えで、混同してはならないが、この秘伝というものの正体はそのほとんどが俗なものと言っていい。 能にも秘伝がある。このことは世阿弥が風姿花伝の中で、はっきりと書いているが、芸の妙味というものは、能に通じて... 続きをみる
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風にもまれ サクラは散り急ぐ 空を映した川に それは音符のように流れて行く 降りそそぐ花びらのその一つ一つの軽さを 川は 透明な裸体で受け止める 空は高く晴れ サクラは散り止まぬ その性急な凋落 遁走のアレグロ 死という最良の友を 連れて
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モーツァルトの音楽は、極めて高い次元での両性具有が達成されている。しかも、官能性さえ損なわれていない。両性具有は、ハイドンの音楽でも共通の性格なのだが、人々を引きつけ、思わず一緒に歌いたくなるような繊細さや官能の点においてもう一つ欠ける。 仏像の形姿も男でも女でもない。やはり、両性具有である。ここ... 続きをみる
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ベートーヴェンの後期の音楽は、わたしはとても、宗教的で西洋音楽としてはエキゾティックな感じを受ける。カルテットやピアノソナタなど特にそうである。 宗教的だと感じるのは、わたしだけではないと思うが、ベートーヴェンの場合は、ある特定の宗教を指向しない、いわば、自由な宗教感情にあふれている。ここが、バッ... 続きをみる