Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ モーツァルトと旅行 <雑感>

モーツァルトは、ごく小さい頃から、父に連れられて、まるで旅芸人のように様々な国へ、旅行しているが、これは、父の意向であり、レオポルトは自分の息子を成功させてやろうという野心に燃えていたであろうが、幼いモーツァルト自身にとっては、そんな野心は、言わばどこ吹く風というものであったろうと想像される。


旅については、ルソーは確かエミールの中で、そのメリットとデメリットが、人によって、異なることを述べていた。その土地や国の良い風習に影響されれば良いのだが、むしろ、悪風に染まってしまう人が多くいることを、述べていた記憶がある。


つまり、旅は人に拠って、その影響の仕方が、まるで異なるものであるようなのだ。わたしは、学生時代に東京に四年住んだばかりで、これは、旅とは言えないかも知れないが、寮生活だったこともあり、中には、「これでは、一年中修学旅行をしているようなものだ」と言い出す同僚生もいたが、わたし自身は、別段そんな風な気持ちになることはなかった。わたしは、どうも、あまり周囲に振り回されない性格のようである。


先に、モーツァルトのことについて述べたが、モーツァルトの鋭敏極まりない感受性は、その行く先々の、国や土地で、試練を受けたようである。その中でも、もっとも大きな試練は、おそらくトルコの地と音楽であったろうと、わたしは想像するものである。


およそ、どのような人や音楽であろうと、全身で受け容れて自分のものにしてしまう、この驚くべき人にあっては、旅行は、自分を根底から試すこととなる、試練そのものとならざるを得なかったろうと思うのである。


K384のオペラ「後宮からの逃走」で、この消化しがたかった土地と国とは、全面的に、乗り越えられるようなのだが、あのモーツァルトの作曲の節目となるK387の「春」のカルテットは目前に迫っているところであるのも、興味深い。


モーツァルトの場合は、旅行が、その非常な良い面を見せた、事例の一つと言っていいのだが、そういうことになる人ばかりではないことも、指摘しておかなければならない。


これは、わたしの知人の話だが、インドに博士課程を取るために、勉強に行った。日本に帰ってくると、「インドで非常識な奴らは、権利ばかり主張して、自分の責任をまるで果たさない。そんな人間ばかりだった。」と慨嘆していたが、その御仁のそれからの生活を見ていると、その批判していたインドの非常識な人間の真似をしているかと思えるくらい、家庭内で傍若無人な振る舞いをして、家の人たちを嘆かせていた。


旅行をするときは、慎重に、試練のつもりで行くのが、何よりなようである。