エッセイ 翻訳というもの 2 <オノマトペなど>
一時代前のことだが、オノマトペはいけないと、盛んに言われたことがあった。これは何に由来しているかというと、他の外国語に訳しにくいのと、特に、ロシア語には、ほとんどオノマトペがない、にもかかわらず、近代ロシア文学はあんなにも高みに行くことに成功した。オノマトペが、いけないという理由としては、これ以外にないようである。
つまり、他言語からの引き合いで、ものを言っている論なのだが、理由が、消極的に過ぎ、また、自国語から自発的に出た論ではないという理由もあって、そのまま立ち消えになった論と言って良かろう。
今では、そういうことを言う人も居なくなった。慶賀なことである。それというのも、例えば、宮沢賢治の作品などは、オノマトペだらけであるが、現在、世界でもっとも盛んに、研究されている近代日本文学は、宮沢賢治の文学に他ならないからである。
言語というのは、不思議なものである。例え、如何に、翻訳しにくい文章であろうと、読む人が、そこに、何かしら光るようなものを感じれば、意訳であろうと構わない。なんとか、それを自国語の言語に訳し、自分のものにしたいと、これは本能的にと言って良いが、願うものである。
これも、ある一時期の現象と見て良いと思うが、例えば、仏典などの文章を、あれは漢訳されたものが、日本に入ってきたので、言うなれば、本当の仏典から得られた仏教とは違うというような論が出て来て、直に、サンスクリット語から訳さなければならないという話になった。岩波文庫などの現代語訳は、そうであるのだが、読んでハッキリと感じるのは、漢訳の方が、各段に優れた訳であり、文章であるとしか言いようがないという実感である。勿論、中には、相当な意訳もあれば、省かれた訳さえあるにも関わらずである。
たとえ、翻訳であろうと、古くから長持ちしている古典は、どう動かしようもないものなので、どのように、本当らしい理屈を付けてみたところで、根底から変わるものではない。
その漢訳された仏典から得られた先人たちの感動なり、信仰なりは、どう変えようもないものであって、これを否定するどのような新式の論も、はかないもののように思える。
ちなみに、宮沢賢治の法華経信仰も、漢訳の仏典に拠るものである。
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