エッセイ お月見 <文学と伝統>
中秋の名月が過ぎた。
そこで、この文章を書こうと思い立った。小林秀雄に「お月見」<考えるヒント>という卓抜な短文がある。
あらましを言うと、あるとき宴会を開き、若い人たちも一緒にワイワイとやっていたが、ちょうど中秋の名月の晩であったことを知る。誰からと言うこともなく、みんなが月を見上げ、黙り込んで、感慨に耽っていた。そこに外国人がいた。その外国人が言うには、今日の月には何か異変があるのか。この場の雰囲気は何かただごとではないと言うのである。その外国人の何とも言えない表情が、じつにおかしかったという、随筆である。
不手際な要約で、申し訳ないが、われわれは自然というものを見るとき、直接に、そのものを見るということは、じつはできない相談なのである。
われわれが、如何に、自国の文化と伝統に従って、自然というものを見ているかは、いくら言っても言い切れないほどのものがある。
月は英語でMoonだが、Lunaとも言う。そうして、Lunaticは「狂気」という意味合いも持っている。シェーンベルグに「月に憑かれたピエロ」という苦い味のする現代音楽があるが、この題名が、シェーンベルグの母国の「月」観を物語っているようである。
日本人は、「花」とともにどれだけ多くの「月」を歌に盛り込んで来たことか。その文学と伝統の重荷を、われわれはどうしても担わざるを得ないのである。
そうして、これを重荷ととるか、財産ととるかは各自の自由だが、ともかく、背負っていることは争うことができない。
われわれは、そうした荷を背負う道を辿って、しっかりとした「自然」と出会うことができるのである。
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