Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 源氏物語考 5 <宇治十帖>

中国に行って、空港に降りたったとき、その中国のにおいの強さに驚いたものである。慣れるまで、小一時間くらいかかったと記憶しているが、中国にいる間中、時折、鼻につくその独特の匂いには悩まされたものだった。


添乗員さんに聞くと、あれは八角のにおいだということで、そういう日本だって、外国の人から、言わせれば、醤油のにおいがすると言われるんですよという話だった。


また、仕事で半田市に通っていたとき、町中を歩いていると酢のにおいが立ち籠めていたことを思い出した。


においは、よほど強烈なものでない限り、嗅覚が慣れてしまう性質を持っていて、その内部に入るとそれと感じられなくなるものである。これは、麻痺とは違うので、ある特定のにおいは、ちゃんとそれとかぎ分けられるのである。


添乗員さんに言われた、日本の醤油のにおいは、帰国したとき確かにほのかにそれと感じられた記憶があるが、当たり前なことにすぐに同化した。


他の外国のにおいはどうだろうかとも思うが、それはそれとして、こんなことを書き出したというのも、宇治十帖の二人の主人公、匂宮と薫宮が二人とも、においにまつわる名前を持っているので、気になったからである。


自分や自分の家のにおいは、気にならないのが正常な状態で、他の人や他の家を介さないと、自分のにおいについて反省的になることはない。


自分のにおいが気になってしょうがいないというのは、一種の神経症的症状である。


前書きが長くなってしまった。


それはともかく


およそ、自省というものに欠けていた光源氏が、みずからを顧みたらどうなるか。わたしは式部の宇治十帖の執筆動機はそんなところに求められるように思っているのだが、さて、どうであろうか。


ここで、はっきりと性格の分離がおこなわれる。つまり、光源氏は著者によって、するどく自省されると同時に、自然と二つに分かれた。注意して置きたいが、その逆ではない。


式部は、「わたしが<女が>本当に愛し切れる男」として、光源氏を書いた。その誕生から、雲隠れまでを、具に物語った。だが、それでは、光源氏を永続したイマージュとして成立させるためには、何かが欠けていた。自省である。


断っておきたいが、源氏という人格が分裂した訳ではない。匂宮と薫宮という性格の区分けがはっきりとした二人の人格に言語化されたのである。


鍵となる自省には、必須な宗教性というものが、求められるだろう。宇治十帖に濃厚に漂う宗教性は、そういうところにあるのではないだろうか。


においは、宗教につきものであるが、このにおいは源氏物語の時代として、仏教の衣を纏ってはいるが、抹香臭さというものではない。ほとんど、無臭に近い枯れきった宗教性である。だが、においというものの特性からして、それを分析的に書き分けるのは、不可能なようである。


一応、あだなる匂宮とまめなる薫宮との区分けはなされるし、名前の通り、匂宮も薫宮も、それぞれ強いにおいを放つのであるが、あだなるとまめなるという、この言葉をどう現代的にアレンジしてみたところで、一様に立ちこめる不思議な宗教的なにおいは、この平安用語以上の知的な分析を不可能にしているように見える。


われわれ現代人から見れば、多くの人が言うように、近代的な小説という観を与える十帖ではあるが、そうした人間についての性格上の区分けは、殊更、近代を引き合いに出さなくとも、平安朝の世にもれっきと存在したとかんがえて少しも悪くはなかろう。ここは、やはり、宣長の言うように「薫宮のもののあはれを知らば、匂宮のもののあはれを知らず。匂宮のもののあはれを知らば、薫宮のもののあはれを知らず。故に思いわびたるなり。」という、浮舟の内面に迫った言葉の方が、真を突いていることだろう。


まめなる薫宮も、あだなる匂宮も、物語の中心にはいない。中心にいるのは、浮舟という、両者の強い性格の間に挟まり、性格自体、また心理さえも紛失したと見える思い侘びた女性である。


本居宣長の「紫文要領」を、わたしなりに解読させてもらえば、最終巻のこの浮舟という純粋な女性の姿に、そのにおいは収斂されていくように思われる。


謹厳そうに見えた仏者が、たちまち馬脚をあらわしてしまうのも、そのためだろう。この浮舟の宗教的な純粋性は、式部の著者としての自省が、極限まで行き着いた、そのあらわれを物語っているように思われるが、どこにも、異常な雰囲気はない。仏教的な抹香臭さなどは、雲散霧消してしまっている。


「生き出でたりとも、怪しき不用の人」と、式部から、形容されたこの女性は、実際、式部の物語る力によってのみ、生きている。思い侘びるほかに、生きる手立てを知らぬこの女の不思議な生は、物語によってのみ可能な宗教性であろう。そうして、薫宮の常識的で冷淡な憶測によって、物語の糸はふっと切られる。と、同時に、読む者は、不思議なにおいの内に、取り残されるようである。


このにおいは、ほとんど、無臭と言えるような、日本の神道のにおいに近いと言っても良いかもしれない。


著者は、再読を願っているように思える。物語は、これで終わりであって、どこまでも、続けるわけにはいかない。ただ、この不思議ななつかしいにおいを、思い出してくれるのなら、もう一度、読んでもらえはしないか。その準備はして置いたのだから。


式部は、そんなようなことを言いたかったのではないかと、わたしは想像するのである。