Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 仁ということば <その働き>

仁は、五徳<五常>、八徳の筆頭に置かれる徳であるが、この仁という語は、不思議なほど、ほとんど熟語を作らない。


思い付く限りで言えば、仁愛、仁慈という熟語はあるが、これはむしろ、仁という意味合いを狭めてしまっている感がある。仁侠という熟語もあるが、これはあまりにも、時代がかった汚れが付着してしまっている感を否めない。他に、仁恕という熟語もあるそうだが、これは、ほとんど使われないことばとして、あまり生きていないことばと見て良かろう。


例外として、仁術という熟語がある。「医は仁術」で、広く人口に膾炙していることばであるし、また、仁ということばが、熟語ではあるが、生き生きとしている言葉である。わたしは、この言葉を、手掛かりとして、仁という言葉を、少しばかり磨いてみたいと思うのである。


ちなみに、仁義ということばがあり、これは、反社会的勢力が好きなように、さんざんに乱用してきた歴史があり、また、しているのだが、これを、熟語として見るのは、やや無理があるのではないかと、わたしは見ている。試みに、大言海を引いてみると、仁義の項には、「仁と義と」という解があるのみである。仁と義ではなく仁と義とという解となっているところが注意を引く。


わたしは、この仁義ということばは、仁義礼智信(孝悌忠)の略語と見る。儒の専門家は、どう見るか知らないが、こう見て取るのが、もっとも良い解のように思えてならないのである。


それで、仁術であるが、医療を施すに当たって、その医術を仁の心を以て執り行う。意味としては、そう取って差し支えなかろう。そうすると、仁のこころがその純粋なかたちで働く、その働きそのものを捉え得たことばと見て、良いのではなかろうか。


大言海には、仁は、さまざまな意味合いを持つことばとして登場する。少しばかり引いてみよう。


その発動する、親に施せば孝。君に施せば忠。行うところとして誠ならざるなきこと。なさけ深いこと。いつくしみ。うつくしび<めぐむこと、あはれむこと>。とある。


「その発動する」という言葉を、よくよく見てみたい。大槻文彦は、この仁という言葉に発動の働きを見ている。これは、卓抜な慧眼と言って良いので、例えば、仁を「忠恕」の徳とする儒学者たちの解など、まるで、念頭に置かれていないのが注意を引く。


そうして、その後の、親に施せば孝。君に施せば忠。という解であるが、常に、具体的な対象を求めた、大槻に拠る卓抜な解と言って良いものだろう。わたしは、ここに、孝、忠だけではなく、義礼智信孝悌忠それぞれの徳に、仁が発動するさまを、思い描く者である。


例えば、ここに抽象的な人を措いてみよう。すると、仁なる義、仁なる礼、仁なる智、仁なる信という徳が得られはしないだろうか。


仁は、大槻の解に拠れば、なさけ深さ、いつくしみ、あわれむことであるとすれば、これは、自分と同等か、或いは、自分より下の者に施される徳であると見て良かろう。仁徳天皇の話柄にしても、医は仁術という言葉から見ても、そのように見て、差し支えないようである。


そうすると、これは、君子の徳の中でも、もっとも上位に位置する徳と見て良いだろう。仁が、五常、八徳の筆頭に置かれる所以もそこにあるのだろう。ちなみに言って置くと、八徳は、君子に関わる常在の徳、恕は小人の徳である。


仁は、情け深く、いつくしみ、めぐむ、その働きにこそ、本領がある。


義がさまざまな熟語を限りなく作りながら、仁が、ほとんど熟語らしい熟語を作らない所以も、そこに求められるのではなかろうか。大言海に拠ると、義は、人人と共共にあるという意。という簡潔な解となっている。


ところで、福沢諭吉が、「巧言令色これ仁なり」と言って、仁を攻撃したのは、有名な話だが、福沢のことばは本質を突いているので、これを等閑にはできない。巧言令色とは、話し振りが巧みで、顔色を調えるという意味だが、福沢は、仁が発動し、具体化するそのかたちを見事に突いている。論語に見えるのは、「巧言令色すくないかな仁」であるが、その仁か、仁ではないかの分岐点は、各人の批判精神に委ねられている。つまり、福沢が捉えたのは、その仁の形であって、仁の働きそのものではないということである。


福沢にあっては、儒は不思議な相貌を帯びるので、この儒の精神によって磨かれた人格は、新時代の要請に従って、儒教を攻撃せざるを得なかったが、「福翁自伝」を読んでも明らかなように、福沢の人格の骨格は、儒教精神そのものである。つまり、福沢によって、儒は、さらに磨きをかけられたと言っていいくらいなのである。


それはともかくとして、誠を以て、情け深く、慈しみ、めぐむという働きを、また、それぞれの七徳に施せば、それぞれの徳は、仁なる徳として、確かに、その徳としての本分を守りながら、よりしっかりとした徳へと変じることだろう。


君子の徳とは、かかるものと、仁義礼智信孝悌忠を、観じては如何であろうか。


※わたし自身が、君子どころではなく、小人の端っこに位置する者であるのは、言うまで
 もないことではあるが。