エッセイ 国家の行方 <無方向性の時代>
大げさな題を掲げてしまったが、現代という時代は、言わば、無方向的な時代だと、わたしはかんがえている。
個人のレベルについても、そうであるし、国家レベルに話を広げて見ても、この方向に進むべきだという方向性が、まるで見えない、また、見ようとしない時代であろうと思っている。
不安で孤独な民衆と、立ち止まる国家。
停滞する時代は、批評的な言辞が、盛んになるものであるが、現代は、それだけでは足りなくなり、現今、これほど個人個人が、言わば、生きる意味を問われるようになった時代もないのではないかと思う。
だが、その問いに答えるはずの哲学はと見れば、じつに悪く専門化してしまって、これはという人が、まるで出ていない。そもそも、哲学という学問自体が、土台からして揺らいでしまっている現状ではないか。
国家はと見れば、北欧のような福祉国家を目指すべきか、それとも、アメリカやまたは、追い抜かれてしまった中国の後を、さらに追い、資本主義経済を再加速させるべきかという問いの狭間で、身動きがとれなくなっているようである。
現代日本という原野に立って、あらゆる前提を取り払い、根本からものをかんがえようとする傑物たるインテリゲンチャは、どこにも居ないのだろうか。
現代の日本は、知識ばかりが豊富な、インテリばかりが溢れかえっているように見えてしようがないのだが。
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