ふり仰ぐ鷹かカラスか知らねども五六羽舞える高き空かな 感興の湧かぬ秋かな曇り空
2022年10月のブログ記事
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バスを待つ夕暮れ時の秋深し 紅葉や北から順に降りて来し
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欧米では、環境保護団体を名乗る人々が、名画と言われる作品に、トマトジュースを掛けたりして、碌でもないことになっているようである。 彼等が主張しているのは、主に、地球温暖化に抗議するためということだが、異邦の出来事ながら、その論理のつぎはぎだらけの俗っぽさと幼稚さには、呆れ返ってしまう。 欧米という... 続きをみる
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旋回す人に追われし鳥の群ムクドリならんヒヨドリならん おのずから亡き父思ふ秋なりき あのときの銀杏並木は無くなりぬ
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鷺十羽憂えるごとく秋の川 一木に二百はありぬ人の柿
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渡り鳥青き山脈越えてけり 曼珠沙華跡形もなく切り取られ どこまでも高き空へと白き鳥
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モーツァルトの音楽は、およそ、どのような形容詞も跳ね返してしまうというのが、その最大の特徴ではないかと、わたしは思っている。中国の古典中の古典、「論語」と同じように。 小林秀雄がアンリ・ゲオンから引用した、「疾走する悲しみ」は名高いが、わたしには、これは特に、ト短調40番シンフォニーの特徴を言い表... 続きをみる
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百個ほど柿実りたる人の庭 見晴るかす山の上には雁の群 世界中駅の広場はハト群れる <無季>
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ある野党議員は、まるで、企業の内部留保が諸悪の根源のような論を、成しているが、この企業が蓄えて置いた内部留保がなければ、以前、リストラによって嵐が吹き荒れたときのように、諸外国も含めて、経済に嵐が吹き荒れている、現在、日本の企業は早くから、立ち直れなくなって、大量の失業者を出していただろうことは、... 続きをみる
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ありふれた風景なれど秋来たり 西日差し夏の名残りの雲懸かる 残光はオレンジ色の秋日暮れ
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秋の朝道行く人の清げなる 何事ぞするどく鳴ける秋雀 秋雀警告するがごとく鳴きその日一日厄日となりぬ
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あるときのこと、こうした人が居た。 10人くらいの人数で、片付けた仕事が終わり、帰る段になって、それぞれの人が、車で来ている人に、分乗させてもらい、主要な駅がある場所まで、連れて行ってもらうということになった。夜の9時半くらいになっていた。3車連らなって走っていたのだが、その一番先頭の車を運転する... 続きをみる
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彼岸花見る影もなく道の傍 曼珠沙華茎そのままに枯れ果てぬ 暗き情恨みに妬みひがみつらみ知らぬふりして我は生きたり
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散らかりてなほあまりある庭紅葉 ※庭紅葉はわたしの造語です。 秋の池無数の円を描く雨
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紅葉はまだ始まらず白き雨 むつかしや人おのずから差異ありてはたそれぞれの人生ならん 男には女のありて女には男のありて人生渡る
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秋風の枝いっせいに揺らす山 秋の空不思議な雲の懸かりけり
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覚えてし昭和元禄なることば文化経済ピークを成せり 鳥の声繁くすれども影見えず秋の朝なる東岡崎
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おもへらく人生如何に過ごせども死ぬまで分からぬ後生なるかな 知る知らぬ分かる分からぬあれやこれ無知の知言へば知は力とも
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飛行機の雲引く空や秋進む わが履歴厳しき昭和いつか過ぎ普段の平成穏しき令和
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山霞み遠くはさらに白き山 単純な算数のざばる昨今や定数是正法律厳罰 国政は何故にかくまで単純な算数などにしてやられ居る
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満々と清き水満つ秋の池 昔よりかしましき論ありけれど忠臣蔵は今なほ新し
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エッセイ きれぎれ草 100 <似非宗教、精神性、大谷翔平>
人間は、人間以上の存在にも、また、人間より遙かに下のものにも、成り得る、マカ不思議な生き物である。 ○ 共産主義思想とは、科学的思考とやらを標榜し、革命をご本尊とする似非宗教に他ならない。 ○ この似非宗教の厄介なところは、日本に入って来ると、言わば、日本風に意訳され、革命的テ... 続きをみる
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ハクセキレイ踊るごとくにちょこまかと 夕暮れの黒き池には秋の雨
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地下を出で夕日身にしむ帰り道 鈴鹿下ろし伊吹おろしはありけれど尾張の夏は暑さきびしき
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秋なれば白くけぶれる雨の町 愛知県平らな山が西ひがし盆地ならねど暑くて寒し
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一日にて秋となりぬる夕べかな ホームには人溢れては消えにけり毎度見れども何やらをかし
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くっきりと山肌見ゆる秋の朝 滔々と湧き出づるものはなけれども一日にひとつ出で来ものなり
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欧米人は、大型の動物種に対しては、少なからぬ情愛を感じていると言われているが、じっさい、これは、表面上のことだけのように思われてならない。 昔は、鯨油を燃料として重宝し、鯨をどれほど乱獲していたか分からぬほどなのに、今となって、鯨を愛すとし、日本の鯨を食す文化に、文句をつけている。 象にも、受難の... 続きをみる
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それぞれにスマホを覗く秋のバス 膝の痛みウソのようにも消えた朝気が付いたるは夜のことなり
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※以前の文章から、ずいぶん、時が経ってしまいましたが、思考を止めていたわけではありません。ある程度、まとまったかんがえとなった感触があったので、それを、ここに記述してみたいと思います。 ここで、わたしの最初の直感に立ち帰って、隠居と見巧者とを、何とか繋ぐ論を、展開できないかと探りたい思いに駆られて... 続きをみる
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たとえば、画家は自分の描いた絵を見せて、感動なりしてもらうことが、可能だが、作曲家となると、自分の真価を発揮した音楽を聴いて貰うとなると、自身で演奏可能なような、ピアノソナタなどは措くとして、どうしても、演奏家という人種が不可欠になる。 それで、ヘタに演奏されたりでもしたら、そこで音楽は終わりであ... 続きをみる