エッセイ モーツァルト 魔笛 <K620>
クレンペラーという指揮者は、この曲は、音楽が鳴っている箇所は、ほぼ一時間ほどであるから、レコード一枚分で宜しいと、音楽が鳴っていない箇所はすべて削って、レコード一枚にして、世に問うたそうである。
クレンペラーという人は、大指揮者で、この人がいたお陰で、確かNBCオーケストラという立派な交響楽団ができたほどの、才能の持ち主なのだが、この魔笛に対する態度は、些か性急に、過ぎたようである。実際、この曲から、音楽だけを取り出した指揮者は、クレンペラー一人だけで、後、それを踏襲する指揮者は居なかった。
思えば、この曲は、モーツァルトが音楽史上、はじめて缶詰になって書き上げた曲で、シカネーダーの台本の拙劣さは、今、見ても、その通りなのだが、モーツァルトは不思議なほど、この台本の大事な箇所を音楽にしていない。
例えば、あの暗い情念を持ったモノスタトスを、パミーナが峻拒する有名な場面では、モーツァルトはまったく音楽を鳴らしていない。あの場面は、魔笛の中でも、もっとも肝になる場面で、言わば、この曲の性格を決定付ける箇所と言って良いのだが、モーツァルトの大才は、それを、まるで避けている。
この暗い情念を持ったモノスタトスを、どう扱うかで、この魔笛というオペラの性格は決まるのだが、モーツァルトはそれをまったく棚上げにしてしまっている。
そうすると、どうなるのか。モノスタトスの暗い性格を深刻に描く場合と、少々笑い者扱いにするときとで、音楽の印象はガラリと変わる。
この肝となるような箇所を、まったく外していながら、音楽は、少しも間然とするところがない、という驚くべきことが起こっている。
クレンペラーは、音楽が鳴っていないという理由で、割愛した箇所だが、音楽が鳴っていないにもかかわらず、不思議なほど重要な箇所となっている。モーツァルトという音楽家の不思議さを、如実に表してもいるようだ。
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