エッセイ 小倉百人一首 <中学時代、その他所感>
和歌によるミクロコスモスと言って良い、日本人や日本語ができるような人なら、誰でも名前なら知っている、藤原定家の編集者としての天才が如実に表わされた、見事な和歌集である。
こう言って置いて、後は、はずかしい話になってしまうのだが、じつは、わたしはこの和歌百首をすべて諳んずることができない。気の利いた人なら、もう、中学生辺りの良く頭が働いた時期に、すべて覚えてしまっていることだろう。これは、わたしの中学時代の頑固な偏見による。
そのころ、わたしは文学なるものを、頭からバカにしていた。文学など、要するに、たかが感情を言い表したものに過ぎない。感情など、昔からとっくに分かり切ったもの。そんなものを今更学んで、どうしようと言うのか、例えば、宇宙のことのような、まだ知られていないことを学ぶ方がずっといいというように、本気でそう思い、そう信じ込み、歯牙にもかけないつもりでいた。教養として覚えるのも一興だが、これも、要するに飾り物のような教養を出ない。
こんな風な屁理屈をこねる、生意気な小僧に、小倉百人一首の価値などが、分かろう筈もなかった。
今の歳になって、どうにか覚えようとしてはいるのだが、如何せん、頭が付いて来ない。
だが、これも言い訳じみている。恥ずかしい限りではある。
わたしは、大学は180度態度が変わり、文学を専攻したのだが、これはドストエフスキーやランボーに、さんざんにやられたからである。
たかが感情ではなかった。人間の感情を扱う文学、畏るべしで、未だにこれに関わってはいるのだが、そこから先が、まるで、芽が出て来ない、もしくは誰にも認めてもらえないという状態で、今に至っている。実に皮肉極まるものだとは思う。(いや、じつは、ある所に応募した現代詩3編が、ある賞を取ったのだが、だが、これは言うに足りないことと言っては、応募先に悪いかも知れないが。わたしは自分の作品の売り込み方が、まことに下手である。)人生かくの如きであろうか。
小倉百人一首のことが、どこかに行ってしまった。色々、かんがえていることがあるので、また、機会を見て書いてみたい。
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