仁は、儒教で強調される徳目であり、慈悲は仏教で重んじられる徳で、両者とも、上から下に、言わば、縦に下る、自然な愛情表現と言って良かろうと思う。 仁は、為政者から人民に下される徳で、仁徳天皇の話柄は、そのことをよく伝えている。慈悲は、仏から人々に齎される徳で、やはり、上から下への、縦に下る愛情である... 続きをみる
儒教のブログ記事
儒教(ムラゴンブログ全体)-
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江戸時代の人々は、地獄などというものを信じていなかったと言われることがよくあるのだが、これは、人々が、宗教的に啓蒙されたからというわけではなく、江戸時代に、国教として採用された儒教は、死後生について何も語らない教えであったことに由来するのである。 儒教は、おもしろい教えで、全人的であることは宗教に... 続きをみる
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ウクライナ情勢 世界はいつもキナ臭い ○ 儒教経典で、五経とは言うが、もう一つ「楽経」という経典があった事が、知られている。この楽経を合わせて六経と言うこともある。楽経とは、音楽によって、民を教化しようとした、とても不思議な経典である。この楽経が見つかれば、世紀の発見になるかも知れぬ。け... 続きをみる
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ここで、「道」の本場である東洋思想は、道というものをどのように考えているのかを概観することにしてみたい。 先ず、荻生徂徠によれば、「道」というものは儒教の中で、発見されたものであるという。 古<いにしえ>の聖人たちの創作したもっとも優れたものの一つとして、「道」があったのであり、古来、「生民<しょ... 続きをみる
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確か、アメリカだったと記憶しているが、サンタクロースは、居るか居ないかと、小さな女の子が真剣に、新聞社に投書した。その新聞社内では、アウトローであった男が、君の友達は間違っている、見えるものだけを信じてはならないと、真面目に答え、女の子は納得し、その新聞紙上に載った返答が、話題になったという逸話が... 続きをみる
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仁は、五徳<五常>、八徳の筆頭に置かれる徳であるが、この仁という語は、不思議なほど、ほとんど熟語を作らない。 思い付く限りで言えば、仁愛、仁慈という熟語はあるが、これはむしろ、仁という意味合いを狭めてしまっている感がある。仁侠という熟語もあるが、これはあまりにも、時代がかった汚れが付着してしまって... 続きをみる
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以前にも、江戸時代の記事で触れたが、日本の江戸時代には、じつに目を見張るようなものがある。 その一つが、塾である。家康は、国教として儒教を選んだのだが、神君と呼ばれるだけあって、この選択は非常な慧眼以上のものがあると言って良いだろう。 平和な時代の教えとして、これに勝る教えはないと、とてもするどい... 続きをみる
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「知は力なり」とは、イギリスの哲学者ベーコンのことばであるが、儒教でも、「知」を徳として五徳の中に入れている。 西洋と東洋では、知というものの捉え方がまるで違っていると言って良いが、そうした大きな話は、置くことにして、大まかに、東洋では知恵を主眼とした「知」で、西洋では理論を主とする「知」と取って... 続きをみる
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キリスト教は罪人のための イスラーム教は貧者のための 仏教は世捨て人のための 道教は隠者のための そして 儒教は世人のための だが、儒教は宗教ではない
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はてさても名を尊びぬ儒教なれども老荘の説もなかなかなりき 文筆はいかにも偉きルソーなれど為すこと見れば小人なりき 山肌のくっきり見ゆる秋の朝
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※この記事には、禁忌に属する事柄が少し含まれています。苦手な方はお読みにならない でください。 人間の深奥にある「信」の心は、神や仏などの絶対的な存在におくべきであろう。 これは昔から変わらない事柄である。 横道に逸れるが、日本では無宗教を標榜して、平気な顔をしている人がいるが、これは日本独自の... 続きをみる
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キリスト教の人格形成力にはたいへん力強いものがある。マザー・テレサの例を見ても分かる通り、往時の勢いは衰えたとはいえ、未だに、聖女を輩出する力を持っている。最近の例では、アメリカの前大統領のブッシュであろう。この劣等生の飲んだくれを超大国の大統領まで押し上げたのは、まさしくプロテスタントの人格形成... 続きをみる
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「資本論」に、こんな言葉がある。「人が、半年生きるということは、その半年分、死に近づいたということである。」これを読んだ当時、また、年齢を重ねた現在も、この物差しで測ったような年齢についての見解には、砂を噛むような人生を見せられている気がして、どうしても、釈然としない思いを抱かせられたものである。... 続きをみる
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法律の厳罰化傾向が続いている。法律専門のお役人方は、法律を厳罰化すれば、犯罪は減るとでも思っているようである。これは、簡単な算数なのであるが、法律が厳罰化されたお陰で、自動車によるひき逃げ事件がなんと増えていることだろうか。 人間の心は、算数では測れない。こんな単純なことも(じつは深過ぎる理なのだ... 続きをみる
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儒教の五徳でいけば、仁義礼知信と末端に位置する徳である。信は、それほど身近な普遍的な徳目であって、例えば、日常生活で、バスや電車に乗るとして、そのバスの運転手、電車の運転士を信頼していなければ、本当には乗れないはずなので、飛行機や船などは、なおさらそうであろう。スーパーで買う食べ物等、どれを取って... 続きをみる
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武は儒教の洗練を受けてその人格形成力を増したと言っていいが、武は侍という言葉が示す通り、君に仕えるのがその本分である。従って、その人格は表立って主張されることを嫌う。 君に仕えるという現実の仕事の意味合いに、儒教は強固な足場を提供したのだが、その中で、作り上げられた人格は少しも分かり易くはなら... 続きをみる
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中国の儒教教典五経の筆頭に位置する古典です。中国は不思議なお国柄と言っていいでしょう。「易」は占いの書物ですが、それを聖典として、しかも五経の最初に掲げているのですから。孔子は五十歳になって、はじめて「易」の本当の価値が分かり、これから人生の危機を回避することができるようになるだろうと言っています... 続きをみる
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普通人の話をしよう。もし西洋の普通人と東洋または日本の普通人のどちらかを信用するかという話になったら、わたしは即座に後者を選ぶ。人が良いからである。 ルソーは「エミール」の中で、もし君が美しい豊かな農園を所有していたら、厳重な警備を怠ってはならない。近隣の誰かが、羨ましがってやって来て、必ず、(ル... 続きをみる
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「大学」は儒教の初学者のための書。「中庸」は儒教の奥義が書かれた書とされています。「大学」巻頭には、儒教についての構造的な文章が書かれています。「修己治人」というのがその圧縮した表現で、要するに我が身を修め、しかる後に国も治まるようになるという考え方です。「日日新たにして、日日に新たなり。」これは... 続きをみる
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儒教は、その本質を一言では言えないという特徴を持った学問で、儒教が批判されるときには、いつもその端的さを欠いた不得要領な性格が、引き合いに出される。儒教は無論政治思想なのだが、孝悌忠を徳目に掲げるという世界的に見てもめずらしい政治思想である。 そもそも、第一の徳として掲げられている「仁」にしてから... 続きをみる
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「論語」は、言わずと知れた中国を代表する古典中の古典です。江戸期の大儒伊藤仁斎は自注の稿本を改訂するごと「最上至極宇宙第一之書」と、巻頭に書こう迷ったそうですが、結局、この言葉は削られたそうです。「論語」は孔子を中心とした言行録ですが、体系化され、組織化された儒教が成立する以前の、十分に現代に通用... 続きをみる
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わたしは、三人肉親を亡くしているが、彼らが日々いかに雄弁であるかは、他の兄弟や母も、私自身も変わりはないようである。他界した兄のことを、母は未だに、わたしに「なんで死んだんだろう?」と問い掛けてくる。母がまだ兄の死を受け入れられないでいることが分かっているので、わたしは黙っている。 これは、無論、... 続きをみる
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全応態とは聞き慣れない言葉だが、聖書(キリスト教では旧約聖書)の言葉の正訳を心掛けようとして、こういう言い方になった。もちろん、わたしの造語である。もっと、いい言い方があればそれにするのだが。 聖書中のもっとも哲学的な書と言っていい「伝道の書」の中に「金はすべてのことに応じる」という言葉が見える。... 続きをみる