エッセイ 物語としての俳句 <利休と秀吉>
朝顔を一輪出だす利休かな
この句であるが、少し前の記事に、忍び込ませて置いたのだが、成功している句かどうかについては、見巧者というような人の判断に委せることにして。
これには、前置きになる物語があるので、それを語ってみたい。
千利休が、秀吉に、その当時観賞用として、流行り出した朝顔を、お目に掛けるという次第になり、利休は、利休ならでは工夫を凝らしたのであるが、その工夫というのが、秀吉が訪れる道中の、咲いているもしくは咲きそうな朝顔を、秀吉が来る前に、すべてちょん切れと、配下の者に命じたことであった。配下の者たちは、利休の命令通り従った。
秀吉は、派手好きな性格だということを、勿論、利休は知っていたし、そのとき、秀吉は天下人であったから、怒らせでもすれば、自分の首があぶないということも、念頭にあったには違いないのだが、利休は、敢えてそうした。
道中、どこにも、朝顔が見えないのを、秀吉は不興気に眺めていた。その秀吉を、利休はそのまま、いつもの狭い茶室に案内した。
そして、秀吉の前に差し出したのが、利休が丹精を込めて育て上げた、ひときわ大きな一輪の朝顔であった。
太閤は、ひどく喜び、機嫌を直した。
そうした物語が実話としてあるのだが、利休は、大した人物だと思うのは、本当にギリギリのところを攻めている。工夫といっても、ほとんど命懸けである。ひとつ間違えれば、自分の首が飛ぶことは必至であるような工夫である。
ご存知の通り、利休は、最期、秀吉の命によって、自ら毒を飲んで自決させられたのだが、人を持てなすということは、ほとんど命懸けの芸術だったということは、これで、お分かり頂けるのではなかろうか。
それとも、利休に切られた朝顔を詠んだ方が、良かっただろうか。
朝顔や利休に切られし千余本
句としては、前掲の句の方が落ち着いているように思えるのだが。
もう一つ思い付いたのだが、
朝顔や利休の出だす大一輪
こちらの方が、良かったかな。何だか、自分では分からなくなりました。
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