エッセイ ミケランジェリとホロヴィッツのピアニズム
ミケランジェリのピアノは輝かしい。それも表面だけピカピカ光る金メッキの輝きのそれではない。精神の内部から、放射される紛うことのない輝きである。同国のルネッサンス期のミケランジェロの描く赤ン坊が筋肉隆々としていて見る者を圧倒するように、ブラームスの曲がシューマンの曲が堂々たる風格と輝きを持った一流の作品になる。
ミケランジェリのピアノは黄金の輝きによく似ている。比較して言えば、ホロヴィッツのピアノは銀の輝きであろうか。(だが、それも磨かれきった銀であり、彼のピアノの響きには、どんなピアニストをも圧倒する凄味があるが。)わたし自身の好みでは、どちらも好きなのであるが、どうしてだろうか、両者ともモーツァルトとなるとあまりおもしろくない。
モーツァルトのピアノ曲はどちらのピアニズムでもそぐわない。だからだろうが、ピアノソナタ、ピアノ協奏曲の演奏は両者ともほとんどない。もともと、輝かしい曲にさらなる輝きは無用なのだろうか。また、両者とも、モーツァルトのピアノ協奏曲は少しはあるのだが、グルダやゼルキン、ブレンデル、カザドシェと比べてもあまりおもしろくない。両者ともに根がロマンティシズムにあるせいなのかも知れない。ミケランジェリのブラームス、ショパン、ホロヴィッツのスクリャービン、シューマンなどは、神品と言っていいくらいなものなのだが。
希代のピアニストとはいえ、両者とも苦手な名曲があるというのも、なかなか音楽というものもむずかしいものである。
残念なことに、今は、二人とも亡くなってしまい、この人というピアニストが居なくなってしまっている現代ではあるが。
ちなみに、ミケランジェリとミケランジェロは国は一緒でも、名前が似ているだけでなんの縁もゆかりもないとのことである。
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