Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 音楽は不思議な芸術 11 <モーツァルト2>

モーツァルトの音楽は、およそ、どのような形容詞も跳ね返してしまうというのが、その最大の特徴ではないかと、わたしは思っている。中国の古典中の古典、「論語」と同じように。


小林秀雄がアンリ・ゲオンから引用した、「疾走する悲しみ」は名高いが、わたしには、これは特に、ト短調40番シンフォニーの特徴を言い表したことばのように、聴こえる。


うまくいかない事は、重々承知だが、もし、モーツァルトの音楽を、一息で、表現するとなると、わたしは「明るい悲しみ」とでも表現したい。


モーツァルトの音楽の根底には、悲しみがある。このことを最初に看破した人は、スタンダールだが、この専門の音楽評論家からは、フーガとカノンの区別さえつかない、素人評論家と揶揄された作家は、音楽を弄んでいるだけのその専門家より、遥かに、モーツァルトのことをよく理解していた。これは間違いのないことであろう。


その「悲しみ」は、どうしても外せないということと、わたしから見ると、その悲しみは、いつも明るく照らされている思いがするということで、「明るい」ということばを添えて見た。


だが、この表現が、モーツァルトの音楽を前にして、どれだけの共感が得られることだろうかと、心許ない。


ゲオンのことばと同じく、やはり、相矛盾するような言葉の組合せだが、モーツァルトの音楽を評するとなると、どうしてもこうした言い方になるのは、避けがたいようである。


モーツァルトの音楽が、人間の持つ根底的な矛盾を解決したとは言わない。それは、人間が死ななくなることと同様に、あり得ない事である。


ただ、モーツァルトは、それらを矛盾を超えて表現することに成功した。それだけでも、奇跡的な出来事に属する。


モーツァルトはつい最近まで、カトリックの聖者の列に加わっていなかった。


カトリックで聖者となるには、厳しい定義があり、その人について奇跡的な出来事が二度起きなくてはならない。


キリスト教は、イエスが奇跡を行ったことに因み、奇跡を否定しない。むしろ、本当に聖者ならば、奇跡が起こって当然だという考え方なのである。


そうして、その奇跡は、魔女による魔術と区分けするために、西洋諸国には奇跡委員会というものがあり、奇跡が起こったという場合、その委員会がそれが神による奇跡なのか、単に魔女による魔術すぎないのか、徹底的に、厳密に調査するのである。


それで、その奇跡委員会に、間違いない、神による奇跡であると、また、それが二度生じた時にはじめて、聖者として認められるという手続きを取るのである。


モーツァルトが、長らく聖者の列に加わらなかった理由は、わたしは審らかにしないが、モーツァルトの音楽の、驚くほど、中を保つ性格に依るのではないかと思っている。


これは、中道の本家孔子が、「怪力乱神」を語らずとした故事を彷彿とさせるもので、モーツァルトにとっては、むしろ、反面の勲章ではなかろうかというようにさえ思えてくるものである。


ともあれ、モーツァルトの音楽の、どこまで行っても、「中を得た」性質は、「論語」と大変よく似たところがあるとかんがえるのは、わたし一人だけのことだろうかと、訝りもするのである。