Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 音楽は不思議な芸術 10<モーツァルト>

たとえば、画家は自分の描いた絵を見せて、感動なりしてもらうことが、可能だが、作曲家となると、自分の真価を発揮した音楽を聴いて貰うとなると、自身で演奏可能なような、ピアノソナタなどは措くとして、どうしても、演奏家という人種が不可欠になる。


それで、ヘタに演奏されたりでもしたら、そこで音楽は終わりである。


じっさい、モーツァルトは、K620の魔笛の初演のとき、指揮台に立ったが、序曲の演奏は喜ばれたものの、一番最初に登場するタミーノが歌い出した途端、失笑を買い、当時のモーツァルトの痛ましい状態からして、立ち直れないくらいの痛撃を食らったという。


この魔笛のタミーノ役は端役だが、むずかしい役で、現代の上演でも、やはり、この箇所で失敗している録音をわたしは知っている。


楽譜が読める人は、ほんの僅かであり、そうした人でも、じっさいに音楽が鳴ってみなければ、その真価はわからないもので、楽譜もおちおち読めない、わたしのような者などは、なおさらの話である。


モーツァルトには、蓄財の才がまるで欠けていたことは確かなようで、一例を挙げれば、K492のフィガロの結婚は大当たりを取り、プラハの街中がフィガロ、フィガロと大騒ぎとなった。今で言う、関連グッズも飛ぶように売れ、モーツァルト自身の身入りもたいへんなものだったと、想像できる。


それが、K527のドン・ジョバンニの頃(そう、わたしは記憶していますが、間違っていたら申し訳ありません。この文章では、その頃のこととして、論を続けます。)になると、寒さを凌ぐために妻のコンスタンツェと一緒にダンスを踊ったという逸話が残っているほど、貧窮している。


この間、何があったのか。モーツァルトがフィガロで儲けた財を、まったく蕩尽してしまったとしか、かんがえられない。


モーツァルトは、元々の原点が、あり余る才能を恃みとした、その日暮らしの音楽家である。どんな注文仕事にも、一級品の音楽を以って提供できると信じ、また、その通りであったような音楽家である。だが、フィガロは大ウケに受けたが、ドン・ジョバンニでは、そうは行かなかった。


原点がそうであったから、もう変えようがなかったのかも知れない。


わたしは、モーツァルトには、宵越しの金は持たぬという、江戸っ子の思想に似た生活流儀があったのではないかとかんがえてしまう。


K492からK527まで、さほどの時間が経っているわけではない。なのに、あの貧困ぶりである。


今昔物語の絵仏師の話の中に、こんな件りがある。「絵さえ上手く描きたらんば、百千の家も出で来なん。」と。


わたしは、モーツァルトの生活上のピーク、金銭がもっとも豊富にあった時期は、この「フィガロ」辺りと見ている。「ドン・ジョバンニ」は新し過ぎ、受け入れられるのに長い時間を要した。「コジ・ファン・トッテ」も、フィガロほどの成功を収めていない。


次の「魔笛」で、もう一度、盛り返すかに見えるが、もう、すでにモーツァルトの死期は間近に迫っている。


先ほど、絵仏師の話を持ち出したが、絵は、その画家の本領が、そのまま現れ、画面に発揮される芸術であり、モーツァルトが得意としたオペラのような総合芸術は、多くの人の手を借りなければ敵わない芸術である。


その代わり、このオペラという芸術は当たれば、ほとんど一生食うに困らないくらいの収入は、得られたくらいのものなのだが、じっさい、モーツァルトは何にそのお金を使ってしまったのであろうか。


今となっては、あれこれと無い頭を絞って、想像をたくましくするしかない。


わたしの想像では、モーツァルトは、その場にいた人か、身近な人にかにほとんど、奢ってしまったり、まるでドブに捨てるように新しい遊びなどに散財し、瞬く間に財を蕩尽してしまったと思っている。


自分の才能に対する、それほど確かな信頼が、この人にはあったであろう。また、稼げばいいことであると。


だが、実生活は容赦しなかった。晩年のモーツァルトの手紙の一節、「わたしは自分の最大の敵にさえ望まないような、苛酷な苦境の中に立たされております。」


これは、単なる、自業自得というものではない。誰にでも、身に覚えのある、人間存在の弱さそのものである。


しかも、モーツァルトの音楽は、その恐るべき苦境さえ、自分の音楽の糧とし、その作品に、まったく表面上の痕跡も何も残していない。


非情に流れ行く、滝のように荒々しい現実世界の直中において、モーツァルトの虹の如く、人々を魅了して止まない永遠の音楽が、これから先も、ずっと演奏されていく事だろう。


わたしは、それを、不思議極まりないが、至極当たり前な事柄として、受け止める。


一体、これ以上の芸術が、他にあるであろうか。わたしは、モーツァルトの音楽で、満足できないような音楽愛好家などを、まったく信用できないのである。


ここには、世のあらゆるものが、人間が想像し得る限りの、最良の表現を得ているからである。


そして、繰り返すが、音楽は作曲家だけでは完結できず、優秀な演奏家がどうしても欠かせない、舞台芸術であるということである。