エッセイ 音楽という善意
「悪魔のトリル」という有名な曲がある。その題名から、どんなに凄まじい旋律だろうかと、その曲を聞く以前は、怖気させ感じられたものだったが。
実際に、聞いてみたら、どうということはなく、小悪魔的な女の子が、少し顔を覗かせたという程度であった。
それよりも、モーツァルトの音楽全体を、悪魔の仕業と見做す、ゲーテの卓見の方が、余程、驚くべきものに思えたものだった。
小林秀雄のモオツァルト論の一番はじめに出てくる、このエッカーマンからの引用は、とても有名だったらしく。
モーツァルトを好きでよく聞くという若い人が、モーツァルトの楽曲を聴きながら、その特に美しい箇所を目掛けて、頻りに、悪魔だ悪魔だ、悪魔の音楽だというので、君は小林秀雄のモオツァルトを知っているかと聞くと、小林の名前さえ知らなかったので、小林秀雄のモオツァルトを読み給えと言って置いたことがある。
インテリゲンチャの影響は、こんな風に出てくるものかと感心したものであった。
音楽は、だが、善意に満ちた芸術である。悪意を表現しようとすると、音楽が壊れる。これは、現代音楽家がさんざんに表現してきたことである。
モーツァルトの旋律には、万人が酔える。悪魔の仕業であろうが、究極の善意であろうが、構わない。善悪の彼岸を云々しても、始まらない。
音楽は善意の芸術である。
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