エッセイ ベートーヴェン 後期の旋律 <比喩として>
ただ単に、言わば、郊外の隘路を辿っているだけの旋律のように見えながら、まるで、音楽全体が漣を打っているように、聞こえる、充実感
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ベートーヴェンは、確かに中心を意図して外している
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初期、中期に多く見られる、まん真ん中に、デンと構え、英雄叙事詩を高らかに歌い上げる、希代の巨匠の姿は、後期になればなるほど、霞んで、どこかに行ってしまう
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そうして、現れてくるのは、ごく当たり前な市井の一市民に過ぎない、それも障害を持った、老人の姿である
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近くに寄って見れば、その通りなのだろうが、ひとたび、遠くから眺めてみると、嫌でも、人目を引かずにはいない、凡俗の普通人とはまるで異なった、不思議な人格の有り様が見えてくる、その一挙手一投足から、目を離すことが困難でさえあるような、唯ならぬ人物の姿である
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この自我確立の見本のような人物は、自我とは、強かろうが弱かろうが、偉大であろうが卑小であろうが、どうでも宜しい、抑も、絶対者の前では、単にドングリの背比べに過ぎないものであると、ハッキリと語りかけて来るようである
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このように、聞こえてくるような音楽を、あの当時のヨーロッパに居ながら、書き上げてしまったこと、これは、本当に真に驚嘆すべき事柄なのである
補筆
例えば、ドビュッシーにも、晩年のヴァイオリン・ソナタなどに、枯れた味わいのある曲があるのだが、これは、萩原朔太郎の晩年の詩群に似て、あまりに一本調子な枯れ方で、古びた松の名木を思わせるような、幾度、立ち返っても飽きが来ない、曲を尽くした味わいに欠ける
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