エッセイ モーツァルトと東洋<K331>
第3楽章が有名なトルコ行進曲のピアノソナタであるが、わたしが注目したいのは、第1楽章のそれこそ出だしのところである。
とても単純で、きれいな旋律なのだが、わたしはここに、比喩になるが、何か異様なまるで大きく口を開けた怪物に吸い込まれていくような、または、底の知れない深淵をのぞき込んでいるような不安な感じを受ける。モーツァルトの曲の中でも、何か、もっとも異常な気配を感じさせる不思議な曲である。
この曲は、アランが異教的と評したイ長調なのだが、モーツァルトの時代、東洋的なものの限界地であったであろうトルコ、大きく言って、世界的な交通の要衝であったこの地の文化を、いかにもモーツァルトらしく、単純極まる形式で、音にして見せた感がある。
わたしは、この曲は、前後が逆転しているような気がしてならない。この異様な旋律は、最後の第3楽章で、軽快に解決されるのではなく、モーツァルトでさえ持て余したような、ただならぬ気配に、もう一度立ち帰ることを要求している、そんな風に見えてしようがない。
グールドは、この曲のその出だしの箇所を、さらに誇張して演奏して見せているが、グールドも、やはり何か異様なものをこの曲から、感じ取っていたようである。
これは、わたしの勝手な想像になるが、モーツァルトは、自分が積み上げて来た確固たる音楽世界がそれこそ根こそぎ揺らぎかねない、ある退っ引きならないもう一つのある確固たる世界に直面している、その正直きわまりない感受性のこれしかないという表明。そんな風に、わたしには聞こえる。
この異常なほど繊細な耳を持たざるを得なかった音楽家は、また、決して中というものを外さない天賦を持っていた。モーツァルトにとって、創造と破壊くらい紙一重なものはない。だが、音楽とは作ることである。自分の音楽世界は壊れる、それはそれで良い。それでも、わたしは創造し続ける。モーツァルトにとっては、あまりにも自然な意志が、自然と見紛うほどの異様な旋律を紡ぐ。
K331を、わたしはそんな風に聞く。
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