エッセイ ベートーヴェン 「第五」考
ベートーヴェンの力業が、存分に発揮された名曲として、見るのが、一般のようだが、わたしは、少しばかり別のかんがえを持っているので、そのことをここに書いてみたい。
ベートーヴェンの力業が、随所に見られる名曲であることは、わたしも異存はないのだが。
わたしは、この第五は肝心かなめな箇所で、自分の力業には頼っていない曲だと、見るのである。およそ、力業だけでは、どうにもならぬほどの憂悶の情に、この時期のベートーヴェンは捉えられていたように思える。
あの暗く激しい「運命」の動機の提示から始まり、その凶暴な旋律が、十分以上に、荒れ狂い、展開された後、言わば、誰も、逃れようのない憂愁のどん底を、さまよい歩いているように見えるところまで、連れて行かれる。
断って置きたいが、わたしの音楽的な教養は貧寒で、わたしは、私自身の音楽的な感受性しか頼りにできないで、この文章を書いている。
だから、どんな怖いもの知らずの論を、成すかも知れないが、ともあれ、自分が聞いたと信ずる第五を自分の言葉で書いてみたい。
話を元に戻そう。その旋律が、少し脇道に逸れたようになる。そうして、その徒手空拳のまま、言わば、することも無く、路傍の小石でも蹴っているような風情の旋律となる。いったい、どうしたわけであろうかとでも、言いたくなるような案配であるが。
そして、ここからが、この第五のもっとも本領が発揮される箇所となると、わたしは信じる者なのだが。
この徒手空拳のような旋律は、徒手空拳であるが故に、ある一種のゆとりを生んでいるように思える。
一筋に、過酷な運命の相貌を、余すことなく、隈なく描き出してきたが、ここに来て、若干、音楽が緩む。そうして、何がしかが、起こるような、ある不思議な気配に包まれる。
と、間もなく、ある淡い肯定的な一つの旋律が、天啓のように鳴る。幾千万の自分の音より、かすかに聞こえた天籟の音である。
ベートーヴェンは、それに、全財産でも賭けるように、自分の全運命をゆだねる。この箇所こそ、わたしが、この曲の根幹を成すところだと、強調したい部分なのである。
ベートーヴェンは、このとき、まるで自分というものを当てにしていない。文字通り、すべての技、手段は使い果たされ、この音楽家は、繰り返すが、徒手空拳そのものなのである。
彼は、まるで、枯れ草が水を求めるように、わずかな天啓に、全身全霊を賭けた。
彼は、見事に、甦って見せたのである。ソナタ形式の「再現」とは、その本当の意味合いを、目の当たりに、現じてみせたのである。
勝利の歌が、高らかに謳い上げられる。
ベートーヴェンは勝利の余韻に酔いすぎていると言っては、いけないのだろう。
この天籟の旋律に、誰よりも震えたのは、正しく、ベートーヴェン自身に、他ならないのだから。
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