Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 美術鑑賞について

セザンヌが好きである。だが、セザンヌの名作と言われるものは、そのほとんどを、金持ちが持って行ってしまい、一堂に会して見ることができないものになってしまっているのが、現状である。


画集だけで、セザンヌの絵を判断するのは危険だということは、分かり切った話であるが、さて、セザンヌの本領を発揮した本物をじっくり見ようと思っても、そうは問屋が卸さないだから、話はまったくややこしくなる。


先日、ヴァルールという人のコレクションが美術館で展覧されて、その中の、あの腕の長い青年の絵を見る機会を持ったが、見た瞬間、これはじっくり数時間ほど掛けて見なければならない絵だとはっきりと分かった。


あの人だかりのする展覧会場の中で、そんなことをしていれば、不審者か、そこまでいかなくとも、変人扱いを受けるのは必至であろう。


セザンヌの絵は、なるたけ見る機会があるごとに、美術館に足を運んでいるから、その絵の感覚は掴んでいるつもりなのだが、見るごとに、何か途方もない精神上の難所へ連れて行かされる感覚になるのは、毎度のことである。


この感覚を、セザンヌははじめ「プチ・サンス」と呼んだが、それが、堂々たる絵画となるまで、じつに目の玉が本当に飛び出そうになるくらい、自然を人間を見つめ続けた画家である。


本物が一枚しかない絵と、CDで手軽に名人の演奏が聞けるようになった音楽では、この点がまるっきり違う。


ブリュッヘンの「ロ短調ミサ」を18世紀オーケストラの演奏で、聴く機会を持ち、感激したことがあったが、その感激は、長身で猫背の本物が来て、その音を聴いているという現場的な興奮でしかなかったことを、CDで聞き直し、そう改めて思ったものだった。


そういうとき、本物とは何んであるかと、根底的に問いたくなる。