エッセイ きれぎれ草 77 文学のことば <比喩>
ことばの定義について、やかましく言い立てる人がいる。その人は、言葉を大事にしているわけではなく、単に論争好きな性格であるに過ぎないものである。
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例えば、私心がない人という言い方があるが、これは比喩なので、厳密に言えば、本当に、まったく私心がない人というのなら、それこそ食べることも出来なくて、餓死してしまうことだろう。
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だが、かんがえてみれば、文章というものは、比喩だらけなのであって、抑も、文という言葉そのものが、「あや」なので、そのことを非難するような人は、文学的センスが、まったくゼロの人であるのだろう。
また、この「センスがゼロ」という言い方も、数字による「なぞらえ」つまり比喩であるということも、断って置きたい。
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この認識は、外さない方が良いので、下手をすると、大きく、言葉の使い方を間違えてしまうことになる。
つまり、文学を度外視する文章を書いてしまうのである。文法の論理に従えば、少しも間違いではないのだが、まったく文章としての体を成していない文を書く人がいる。
外国語や古文などの現代語訳をする、英語や国語の教師や学生などに、多く見受けられる現象である。文章は、テストで良い点を取れば、それで良いというものではない。
文は、人の心に訴えかけ、それを読んだ人の心の中に何事かを残すのが、本領である。だからこそ、言葉の「あや」をしっかりと調えるのが必要なのであって、文法が正確であれば、それで良いというものではないのである。
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「ことばは要らない」とか「言葉でなんか表現できない」とか、すぐ、言いたがる人がいる。
よくよく、かんがえてみれば良い。その人は、自分の言葉による表現を放棄しているか、自分の感動に、飲み込まれているだけであって、けして、言葉を超えているのではない。言語表現とは、そんな貧困なものではないのである。
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良く、「実物を見た感動」と言いたがる人がいるが、信長も西郷も、今では、会ったことのある人は誰もいない。世界の四聖人、歴上の人物みなそうである。
実物を見た感動とは、要するに、有名人を見たとか、または、実物がそこにあったという観念に興奮しているだけのことに過ぎないものである。
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万葉歌人は、「言霊の幸はふ国、にぎはふ国」また、「言絶えてかくおもしろき」と歌った。
人の魂を揺さぶるほど、充実したことばを持っているのなら、それも頷けるが、物真似をすれば、直ぐ、滑稽になる。
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