エッセイ モーツァルトのこと <誰もが一番>
モーツァルト好きの人については、ある偏向というものがある。モーツァルトが好きな人々が、まず、譲らないこととして、モーツァルトの最大の理解者は、他ならぬこのわたしだという、ある意味で、純粋と言って良いような思いである。
これは、モーツァルト好きには、共通する傾向と言って良く、モーツァルトが好きな人なら、誰でも頷かれるだろうことだと思っている。
たとえ、ワーグナーがいかに見事にモーツァルトを評しようが、小林秀雄が格段に優れた論考で、モーツァルトを描こうが、それでも、最大の理解者はこの自分に他ならないという思いは、モーツァルト好きの人々ならではのものだと思う。
このことを、つらつら考えてみると、このように聴く者の立場を、単なる一聴者として遇する訳にはいかないという、モーツァルトの、作曲家としての最大限の愛情が、どの曲にも、自然と籠められていることが、よくよく見えてくるように思えるのである。
「わたしは作曲家として、最大の敬意を、わたしの曲を聴く人すべてに払う、そのために、わたしは自分の持てるものすべてを捧げる」というような、内なる声も聞こえてくるようだとも、想像するのである。
ともあれ、誰もが、一聴者で終わらせることのない、このモーツァルトという人は、モーツァルトという名前さえ偶然であるような、ある絶対を指向する、真実の人間と言って良いのではなかろうか。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。