ミケランジェリのピアノは輝かしい。それも表面だけピカピカ光る金メッキの輝きのそれではない。精神の内部から、放射される紛うことのない輝きである。同国のルネッサンス期のミケランジェロの描く赤ン坊が筋肉隆々としていて見る者を圧倒するように、ブラームスの曲がシューマンの曲が堂々たる風格と輝きを持った一流の... 続きをみる
エッセイのブログ記事
エッセイ(ムラゴンブログ全体)-
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これは、現代人の耳目に入り易い漠然とした問いである。が、ここに、思考法というものがある。 試みに、孔子の言葉を引こう。「われ知ることあらんや、知ることなきなり。匹夫ありてわれに問う。空空如たり。われその両端を叩きて尽くすのみ。」 両端とは、今の言葉で言えば、命題と反対命題のことである。 そうすると... 続きをみる
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前に、ビリー・ジョエルのポップスの迷惑だったことを書いたが、このことは、ベートーヴェンについてよく考えるときの糸口になるのではないかと心付いたので、ここに書いてみたい。 わたしはそのとき、「悲愴」の2楽章についてまったく無知であったから、ビリーの声が焼き付いてしまった訳だが、ベートーヴェンの曲は、... 続きをみる
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ドストエフスキーの小説、特に「罪と罰」以降の作品には、独特の時間が流れていることは誰も指摘することだが、それについての詳細な論は読んだことがない。 ここで少し、それについてかんがえてみたい。まず、ドストエフスキーの時間の扱い方だが、ドストエフスキーは、じつにうまく現実の時間を利用していることである... 続きをみる
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マンガの話である。 「ドラえもん」の最後は、あのおびただしい奇抜とも見える発想の数々の話は、すべて、植物人間となった少年の夢であったことが明かされて終わる。 ここには、教育的な意図などないと考えてよいので、「限りなく弱い自分」というものが、とてもよく信じられていたことが、よく分かる。つまり、あのお... 続きをみる
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十五分程度の曲なのだが、学生時代、はじめてこの曲を聴いたとき、そのあまりの苦さに怖じ気づき、再びこの曲を聴く気になるだろうかとさえ疑った曲である。このベートーヴェンの後期の王冠と言われる弦楽四重奏の苦さは並大抵のものではない。シェーンベルグさえ、まだまだ聴きやすいと思えるほどである。 学生時代から... 続きをみる
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普通人の話をしよう。もし西洋の普通人と東洋または日本の普通人のどちらかを信用するかという話になったら、わたしは即座に後者を選ぶ。人が良いからである。 ルソーは「エミール」の中で、もし君が美しい豊かな農園を所有していたら、厳重な警備を怠ってはならない。近隣の誰かが、羨ましがってやって来て、必ず、(ル... 続きをみる
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エッセイ クラシック音楽雑感 「ベートーヴェンとビリー・ジョエル」
ご存じの人も多いと思うが、ビリーがピアノソナタ「悲愴」の2楽章に歌詞をつけてアカペラで歌っているポップスがある。私はうかつなことに、ベートーヴェンの曲だと知らずに、友達に勧められて、ポップスも棄てたものじゃないなと何度も飽きるほど聴いた。学生時代のことである。 困ったのは、それからである。「悲愴」... 続きをみる
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以前、日本人の女性の平均寿命が下がったというニュースを見て、興味が湧いた。それで、その原因を調べてみると、20代の女性の自殺が一番だという記事を見て、NHKに寄せられている自殺願望の女性たちの投稿を色々と読んでみたことがある。 すぐに感じたのは、こうした彼女たちの要求に応えられるのは、超人的な、い... 続きをみる
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かねてから思っているのだが、日本語には、英語のbe動詞に相当する意味での存在動詞というものは、ないのではないかという疑念を持っている。 結論から言ってみれば、英語のbe動詞フランス語のetre動詞等は、いわば存在を保証する動詞だと思っている。 日本語いや日本語に限らず、漢字圏の言語では、例えば、「... 続きをみる
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およそ、これほど人生というものに密着している徳もないだろうと思うのだが、宗教でも、これを第一義の徳とする宗教の教義を、わたしは寡聞だが、聞いたことがない。 世界的な宗教では、副次的な役割ばかりである。儒教の八徳にも見えない。 あまりに輝きに欠ける徳だからだろうか。 本当の縁の下の力持ちとは、この徳... 続きをみる
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ひとことで、資本主義経済というが、その本性は定義も、ある大まかな分類も不可能な、巨大な世界的現象で、文学上のロマンティシズム運動が定義不可能な大きな運動であるよりも、もっと規模の大きな社会的運動であるということである。 分かっているのは、大規模な需要に対する大規模な供給、それと、なによりも速さを伴... 続きをみる
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バッハのマタイ受難曲やヨハネ受難曲を聞き込んだ。 そうして、思ったことがあるのだが、そのことについて少しばかり書いてみたい。 アーチ型の橋を石組みで作るとき、アーチの下の部分をまず木組みで作り、その上に木組みに合わせて石を載せていく。その後に、木組みを取り除けば、しっかりした橋ができる。物理的に見... 続きをみる
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今、現代人で心の中に、荒涼とした冬の景色を感じていない人はいないだろう。これは、子どもでさえそうである。胸にポッカリと空いた穴と言っても、いずれ文学的表現なので、同じことだが。 ともかく、一種、異様な光景であることは間違いない。誰もが、不安で孤独な心を持て余してしまっている。 現代人の心は病んでい... 続きをみる
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くだらない話で、申し訳ないが、御器かぶり、ゴキブリの話である。ゴキブリが、なぜまた、これほど多くの人に、異常なほど嫌われているのはどうしてだろうかと気に掛かるのである。 わたし自身、もちろんゴキブリは嫌いで、見つけると身の毛がよだち、やっつけるのだが、あるとき、ふと「ゴキブリと言えども、生き物には... 続きをみる
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雑駁な言い方を、許してもらえれば、マルクスの「資本論」は、通貨が金貨や銀貨であった時代のもの、ケインズの経済論は通貨が金銀から紙幣となる移行時代のものと言えるのではないだろうか。 1978年から、金が通貨の座を奪われ、国際通貨が不在となり、通貨はことごとく価値が相対化された。この価値を保証するのは... 続きをみる
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中国はなんとも不思議な国である。国民性としては、時の為政者など信用しないが、知識階級の政治的関心は他のどの国と比べてみても抜群に高い。諸子百家の時代は自由思想時代といわれ、それこそ思想が乱立し百家争鳴したが、それらの思想はすべて政治思想である。儒教は、もちろんそれらよりずっと古い。 国は一般にどの... 続きをみる
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儒教は、その本質を一言では言えないという特徴を持った学問で、儒教が批判されるときには、いつもその端的さを欠いた不得要領な性格が、引き合いに出される。儒教は無論政治思想なのだが、孝悌忠を徳目に掲げるという世界的に見てもめずらしい政治思想である。 そもそも、第一の徳として掲げられている「仁」にしてから... 続きをみる
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一時期、「ラスト・サムライ」という映画が流行ったことがあった。わたしは流行りものは敬遠する性質で、未だに、その映画は見ていない。 わたしが思ったのは、内村鑑三が「代表的日本人」の中で、西郷を評して「最後にして最大の武士」と言っていたのを、記憶していて、そのことを、あれこれとつらつら思い巡らしたので... 続きをみる
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わたしは、三人肉親を亡くしているが、彼らが日々いかに雄弁であるかは、他の兄弟や母も、私自身も変わりはないようである。他界した兄のことを、母は未だに、わたしに「なんで死んだんだろう?」と問い掛けてくる。母がまだ兄の死を受け入れられないでいることが分かっているので、わたしは黙っている。 これは、無論、... 続きをみる
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そもそもの話であるが、「新自由思想」という、言葉自体が奇妙である。ニーチェが言っているように、「思想」はすでに、どのような思想であろうと、人間によって考え抜かれ、その帰結するところは、見抜かれているのである。 従って、われわれに残されているのは、思想を選択することであって、それが、現代という地に播... 続きをみる
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西洋文化の女性の視点ということで、よく考えることがある。 卑俗なところから、まず、ベートーヴェンをヨーロッパ随一の美男子としなければ、気の済まなかったこと。バッハについても、その再婚相手のアンナ・マグダレーナが、「バッハの思い出」の中で、申し訳ありませんという調子で「私の夫は、美男子ではありません... 続きをみる
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現在、日本だけでなく、諸外国を見渡して見ても、インテリゲンチャと呼べるような人が居なくなってしまっている。村上春樹が一人いるが、残念ながら、彼の作品はどうしても、思想としての力は弱いように思えてならない。 ちなみに、インテリゲンチャという言葉は、ロシア語である。蒙昧な貧しい民衆と暗愚な専制君主との... 続きをみる
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「カラマーゾフの兄弟」を高校時代の17歳の時に読み、圧倒的な衝撃を受けた。それまで、うつろな観念の集合体以上のものではなかった人間たちが、わたしの心のなかで突如としていきいきと躍動しはじめ、ひからびていた心臓に本当の血流が注ぎ込まれ、たくましく鼓動を打ちはじめた。いや、それでもまだ弱い比喩である。... 続きをみる
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わたしは、高浜虚子のこの言葉が好きである。 歴史を見てみると、喜撰法師という人がいる。この人は六歌仙の一人に選ばれるくらいの歌人なのに、残っている歌は、百人一首で有名な一首しかない。どういう人だったかも、さっぱり分からない。 分かっているのは、都の東南に庵を構えていた法師だということくらいで、それ... 続きをみる
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ツァラトゥストラはゾロアスター(拝火教の祖)のドイツ語読みである。ニーチェは原水爆という史上もっとも熱い火を手に入れるに至った現代を予見していただろうか。詩人の千里眼とはそういうものであろうとも思うが。 ベルクソンは、最後の著作で、「人類はまだ自分たちの運命は、自分たち次第だということをよく分かっ... 続きをみる
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日本語が、テンポやリズムに乗り難い言語であることは、ご承知のことであろう。英語やフランス語、ドイツ語などのアルファベット属の言語は、テンポやリズムに乗りやすい。この性質が、リンカーンやキング牧師、オバマ、また、悪人だが、ヒトラーなどの雄弁家を生む。 では、日本語で、雄弁家のように長々と喋るとなると... 続きをみる
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権力が一点に集中するとき、どんなものが出来上がるのか見本のようなものである。 今になって人々が嘆賞しているが、当時の人々は、ああいうものを作り上げるために、どれほど苛酷な労働を強いられたかを想像してみる人がいないのは、わたしには意外に思えてならない。 兵馬俑の壮観よりも、この俑が歴史の文献から完全... 続きをみる
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jazzはかんがえない、踊る。 だが、チャーリー・パーカーはかんがえる。 なにを。 何をではない。ただ、かんがえる、しかも過不足なく軽やかに。 チャーリー・パーカーのサックスは早すぎて踊れない、だからスウィングする。 論理的に言えば、無思量底を思量する。 こんな意識の絶壁で、詩や音楽など歌い上げら... 続きをみる
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女→論→教え→信仰 という日本仏教の流れ。 記録されている限り、日本の最初の出家者は女であった。このことは、日本人の仏教に対する態度として、多くのことを示唆している。 伝教大師は、当時の仏教が論であることを嘆いて、中国に渡り、教えを伝えた。その後の鎌倉六祖である。 この流れは、何を示唆しているであ... 続きをみる
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現在、一番上等な牛は、世界で公認されている和牛である。オーストラリアがWagyuの商標を取って世界に売り込んでいることでも知られる。ただ、世界の一般の人々には、Wagyuが日本由来の牛であることは、あまり知られていないようだが。 明治期になるまで、日本では牛を食う習慣はなかった。こんな滋養に富んだ... 続きをみる
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表題は、イスラームのことわざである。この言葉には、大きな知恵が宿っていて、現代のような気忙しい世の中では、こんな言葉は間違いだという人もあるだろうが、人が生き延びていくためには、よくよく考えてみれば、明日という日をしっかりと信じていなければ本当には生きていけない。経済的で効率的な観念よりも人を重視... 続きをみる
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セゴビアという名ギタリストがいた。ある友達がその人のことを当然のごとく絶賛しているのを聞き、早速買って聴いてみたが、良さがさっぱり分からなかった。1930年代くらいの古い録音で、多分SP番からの復刻だろう、録音状態の悪さもあって、何がいいんだろうと思っていた。それに、演奏自体も取っ掛かりのない弾き... 続きをみる
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バルザックでは、金貨が活躍する。バルザック自身がありとあらゆる事業に手を出しては失敗し、金に振り回され続けた作家だった。 「ウジェニー・グランデ」で、ウジェニーの父の守銭奴のグランデが、娘に譲ったはずの金貨をいとおしそうにじっと見つめる場面には、凄惨な迫力がある。 「絶対の探求」で、バルタザールの... 続きをみる
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日本人は、記憶力のいい国民である。アメリカに無条件降伏したとき、大人たちは何と言ったかというと「早く、子供たちを隠せ。」と口々に言ったのである。 これは、元寇のとき、元の軍人たちは何をしていったか覚えていたからである。彼らは、男女を問わず、子供たちの手に穴を開けて綱を結び、船にその綱を絡げて、引い... 続きをみる
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ドストエフスキーの「死の家の記録」の中で、廃船解体を命じられる囚人たちの話がある。鮮やかな印象を残す場面で、最初に読んだときにも、よく記憶に残った。 アランも「幸福論」の中で、言及しているが、囚人たちに課せられたのは、どこにでも山のようにある、一文の得にもならない廃材を、廃船を解体して積み上げるこ... 続きをみる
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全応態とは聞き慣れない言葉だが、聖書(キリスト教では旧約聖書)の言葉の正訳を心掛けようとして、こういう言い方になった。もちろん、わたしの造語である。もっと、いい言い方があればそれにするのだが。 聖書中のもっとも哲学的な書と言っていい「伝道の書」の中に「金はすべてのことに応じる」という言葉が見える。... 続きをみる
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芸術上、あるいは宗教上に伝えられるものとして、秘伝というものがある。禅の教外別伝などは次元の違う考えで、混同してはならないが、この秘伝というものの正体はそのほとんどが俗なものと言っていい。 能にも秘伝がある。このことは世阿弥が風姿花伝の中で、はっきりと書いているが、芸の妙味というものは、能に通じて... 続きをみる
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モーツァルトの音楽は、極めて高い次元での両性具有が達成されている。しかも、官能性さえ損なわれていない。両性具有は、ハイドンの音楽でも共通の性格なのだが、人々を引きつけ、思わず一緒に歌いたくなるような繊細さや官能の点においてもう一つ欠ける。 仏像の形姿も男でも女でもない。やはり、両性具有である。ここ... 続きをみる
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はじめに、「和を以て貴しと為す」という有名な言葉が掲げられているが、ここで、正邪、善悪の判断は保留されているというのが肝心なので、「和」が正しいこととか善であるとか、理念的な言葉遣いをしていないことに注目して頂きたい。「貴しと為す」で、人の心の動きに重点が置かれているのが、この名文の要のところだと... 続きをみる
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ガンジーのことをよく考える。思うのだが、あれだけの民衆を苦難の道へと進ませ得た男が、王としての素質を持っていなかった訳がないとかんがえている。 ガンジーとトルストイは手紙のやりとりをしているが、トルストイもまた、王としての素質を持って生まれた男だったと思っている。このたった一人で国家を敵に回すとい... 続きをみる
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ベートーヴェンの後期の音楽は、わたしはとても、宗教的で西洋音楽としてはエキゾティックな感じを受ける。カルテットやピアノソナタなど特にそうである。 宗教的だと感じるのは、わたしだけではないと思うが、ベートーヴェンの場合は、ある特定の宗教を指向しない、いわば、自由な宗教感情にあふれている。ここが、バッ... 続きをみる
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金については、いつもその不足を嘆き、今の収入の中でなんとかやりくりをつけているというのが、一番まっとうな、またもっと言えば、健全な在り方なのではないかと思っている。 1億円の宝くじが当たって、いい気になってしまい、高級自動車を買い漁り、首が回らなくなって、社会からドロップ・アウトしてしまった人を知... 続きをみる