jazz <チャーリー・パーカー>
jazzはかんがえない、踊る。
だが、チャーリー・パーカーはかんがえる。
なにを。
何をではない。ただ、かんがえる、しかも過不足なく軽やかに。
チャーリー・パーカーのサックスは早すぎて踊れない、だからスウィングする。
論理的に言えば、無思量底を思量する。
こんな意識の絶壁で、詩や音楽など歌い上げられないはずの境地で、チャーリーパーカーは、朗々とサックスを吹き鳴らす。これは、ランボーや臨済がやったことだ。
チャーリー・パーカーは明るく、自由にかんがえている。人々は、それに乗ってスウィングする。
かんがえないはずのjazzがかんがえている。
こんなパラドクシカルを体現した男は彼だけだ。コルトレーンはjazzを壊した。
マイルスはjazzを点描した。チャーリーは朗々と歌いあげた。
本当に自由にかんがえていたからである。
頭を少しも動かさない彼の演奏スタイルは、そのことを如実に物語っている。
こんなところまで、jazzを追い詰めたら、もう後は、そろそろと絶壁を下るほかない。
その後のjazzは死んだかと言われる所以である。
チャーリ・ーパーカーにおいて、jazzは真の自由を獲得したのである。
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