エッセイ なぜ生きる<思考法>
これは、現代人の耳目に入り易い漠然とした問いである。が、ここに、思考法というものがある。
試みに、孔子の言葉を引こう。「われ知ることあらんや、知ることなきなり。匹夫ありてわれに問う。空空如たり。われその両端を叩きて尽くすのみ。」
両端とは、今の言葉で言えば、命題と反対命題のことである。
そうすると、「なぜ生きるのか」という空漠とした問いの反対命題は「なぜ死ぬのか」である。
匹夫にそう問うたとしてみよう、そうして。
「死ぬのが定めだからです。」
と、彼がこう応えたとしたら。
「それでは、生きることは定めではないのか」と応え得るだろう。
これで、納得できればそれで良いが、もっと問いたくなる人も、もちろんいるだろう。
だから、「叩いて尽くす」のである。
「つるかめ算」という日本式の思考法がある。つるとかめどちらでも良いが、大きく数字を取っておいて、それから、数をひとつひとつ擦り合わせていく。
これは、一種の演繹法で、ひとつの大きな直観から分析していくという流れで、思考法として自然な方法である。
「なぜ生きるか」という問いは、問いそのものが不自然なのだが、そのことに気付くには、先ず、大きな直観を要する。
「なぜ」は科学を見ると明らかなように、物に関する知識には、強い力を発揮するのだが、殊、人間のことになると、そこで、問いが止まってしまうものだからである。だから、漠然とした問いだと言ったわけだが、自然科学が発達した西洋では「何故なしに生きる」という苦肉の言葉があったりする。そのようにかんがえるしかないというような言葉である。それはともかく、今の科学万能の世相に抗うのは、やはりむずかしいことのようで、現代人は、どうも、人生を物品並みに取り扱いたがるようである。「なぜ」と質問すれば、直ちに解答が得られるものだと思っているのではなかろうか。
「生きる」ということについての問いは「どのように生きるか」という問いが先に来なくてはいけない。それでこそ、徐々に擦り合わせていくという人生上の行為が可能になるのである。
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