Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 十七条の憲法 <自省する法律>

はじめに、「和を以て貴しと為す」という有名な言葉が掲げられているが、ここで、正邪、善悪の判断は保留されているというのが肝心なので、「和」が正しいこととか善であるとか、理念的な言葉遣いをしていないことに注目して頂きたい。「貴しと為す」で、人の心の動きに重点が置かれているのが、この名文の要のところだと思う。


因みに、道は「ち」地に、尊称や美称である「み」をつけたのが、日本的な解である。つまり、やんごとなく、美しく貴い地が道である。もちろん、これは形而上の概念に属する。「地」は「血」と同源の言葉と捉えて見れば、隅々まで、隙間なく張り巡らされたものという解が成り立つだろう。人体は、切ればどこでも血が出て来る。


そうすると、道とは、どこでも良いが、それは貴く美しい地を歩いて行くということになり、単に道を歩くということではない。


和は「輪」であり、「和睦」である。「貴し」には美というニュアンスが込められていると、見て良いなら、当時の血で血を洗う政治状況から考えれば、実に反時代的な言葉で、日本文化の不思議な有り様を垣間見せている。


次に、政府の官僚が、朝遅く来て、夕方早く帰ってしまったら、どのように政務というものが執り行えようかという実際的な言葉が見える。反語的に当時の役人たちを叱責した条であるが、当時の役人たちの責任感というものが如何に乏しかったという反証にもなっている。


そして、最後に「われ必ずしも聖にあらず、彼必ずしも愚かにあらず、相共に賢愚なること鐶<みみかね>の端なきがごとし。」という不思議な言葉が現れる。およそ、法律には反省というものがないのであるが、ここでは、憲法自身が自省している。


プラトンは、人間に馬が造れないように、法律は造れないと言ったが、日本では、その事情はかなり異なっているようである。


聖徳太子の遺言は「善を為せ悪を為すなかれ」である。モーセの十戒のようなことごとしい言葉の羅列はない。日本人には、こう言っておけば十分という趣である。


典拠を持たない不思議な法律、鎌倉時代に成立した「貞永式目」についても、私見では、やはり、十七条の憲法にその精神的血脈を持つに違いないと思っている。