エッセイ 金という全応態
全応態とは聞き慣れない言葉だが、聖書(キリスト教では旧約聖書)の言葉の正訳を心掛けようとして、こういう言い方になった。もちろん、わたしの造語である。もっと、いい言い方があればそれにするのだが。
聖書中のもっとも哲学的な書と言っていい「伝道の書」の中に「金はすべてのことに応じる」という言葉が見える。
これはその通りなのであって、聖なる書の言葉として重んずるべき言葉である。
ただ、世の中は、例えば一世代前の「健康な肉体に健康な精神は宿る」という言葉のように、誤訳が横行するもので、この言葉は、プラトンの「健康な肉体を持っている者が、健康な精神を持っているとは限らないが、精神が健康である者は肉体が健康であることを望む」という言葉の明らかな誤訳である。
「金はすべて」という現代、横行している言葉は、従って、この聖書の言葉の、およそ堪え性のない心から生み出された中途半端な誤訳だということが、これで分かるだろう。
「応ずる」のであって、「応」という言葉からも明らかなように、決して物事の中心に来るものではない。また、金は先に来るものでもない。大事な話になればなるほど、金のことを先にしてしまっては、話がおかしくなる。金は最後に来るべきものである。資本主義者さえ「私はキャピタリストだ。」と断ってから金の話をする。
だが、事、金の話となると、実生活の基盤中の基盤であるから、これを辛抱しようとするには、相当の覚悟が要る。無論、覚悟のないところに思想など生まれはしないが。
江戸時代の儒者は、その点、偉かったと言っていい。儒教を教養とした伝統があったからこそ、「金は汚ないもの」という言葉も生まれたのである。落語にもよく出てくる、この言葉は、現代、死語になりつつある観もあるが。
ところで、一方で、儒教は、富貴という言葉があるように、良い金持ちを咎めない教えであることも、断わっておきたい。仁の行われている世の中では、むしろ、貧をかこっているのは、恥であるという考えである。金にも汚い金もあれば、清廉な金もある。
金に清廉であるということは、一種の徳である。義に通ずるからである。
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