閑話休題 限りなく弱い自分 <ドラえもん>
マンガの話である。
「ドラえもん」の最後は、あのおびただしい奇抜とも見える発想の数々の話は、すべて、植物人間となった少年の夢であったことが明かされて終わる。
ここには、教育的な意図などないと考えてよいので、「限りなく弱い自分」というものが、とてもよく信じられていたことが、よく分かる。つまり、あのおびただしい発明品の数々は、すべてこの点から、発想されていたということがよく分かるのである。
「ドラえもん」のおもしろさは、この「弱い自分」というものが、いかによく信じられているものであったかというところにあると思っている。
近来の日本のマンガ界の成功は、決して根のないものではない。「よく信じられた自己」というものが随所に活躍していて、そこに、みんなが思わず知らず惹かれていくのである。「ドラゴン・ボール」でも、「ワン・ピース」でも、「こち亀」でもそうである。また、これらの主人公たちが、揃って、自己反省とは無縁な性格であることも付け加えて置こう。その意味では、のび太の方が、はるかに自分を振り返っている。
だが、信じる度合いの深浅というものがあり、それは、また、別の次元の話となる。
「良く信じられた自己」。日本の近代文学は、むしろ、それを解体することから始まったようである。現在は、散らかったそれらの破片を収集するのに忙しい。
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