Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

「日本語の特性」私見 <誤魔化しのきかない言語>

日本語が、テンポやリズムに乗り難い言語であることは、ご承知のことであろう。英語やフランス語、ドイツ語などのアルファベット属の言語は、テンポやリズムに乗りやすい。この性質が、リンカーンやキング牧師、オバマ、また、悪人だが、ヒトラーなどの雄弁家を生む。


では、日本語で、雄弁家のように長々と喋るとなると、どうなるかというと落語になるのである。つまり、落ちのある話にならないといけない。それか、講談家のように、啖呵を切らなければいけない。落ちは笑いであり、啖呵は見栄であり、思想とはならない。


アルファベット属の言語は、この思想をリズムやテンポに乗せて語るのに適した言語である。それぞれ、見ていくと、英語は肯定を力強く語るのに適し、フランス語は否定を力強く語るのに適する。また、フランス語はもっとも正確な言語であるとも言われるが、その分ニュアンスに欠ける。また、文章がつねに上向きに発音しなければならないことには、私事ながら、どうしても、ある違和感を伴わずにはいられない。


リンカーンやキング牧師の演説の有名な箇所は、みな肯定形であることに、注意してほしい。「Of tha poepie、By the poeple For the poeple」また「I have a dream」そうして、「Yes we can」である。ドイツ語は回りくどい性質を持っているが、例えば、ヒットラーの「ドイツ芸術の復興なくして、ドイツ民族の復興はない。」となる。似たフレーズを思い出される人もいるだろう。「福島の復興なくして、日本の復興はない」元総理の小泉が、換骨奪胎した言い方である。田中角栄は、だが、雄弁家ではなく能弁家であろう。


日本で真の雄弁家だった人物を探すとなると、辻説法をした日蓮上人と講演によって信者を獲得した内村鑑三くらいしか思い浮かばない。


こうした、思想をテンポやリズムに乗せて語るのに、困難極まりない日本語の特性を見ていくと、いかに日本語がごまかしの利かない言語であるか、理解してもらえるのではないだろうか。


話し言葉としてみると、発音は容易だが、拗音は少なく正音が多く、はっきりと発音しなくては、相手に言葉が伝わらない。また、ペラペラと自分のリズム乗ってしゃべりまくる人は、軽薄の謗りを免れない。


そうして、あの正音を崩す喋り方や英語のth、フランス語のr、lなどの独特な発音の多すぎ、同じ音でも発音が多岐にわたる多くの外国語であるが、彼らは、どうやって聞き分けているのかと、こちらから質問したいくらいなものである。中国語などは、発音の軽快さと書き言葉の重厚さとのギャップは、一体どうなっているのかと思わせるようなものがある。中国語を例に引いたが、一例として、「あ」の発音は中国語では4種類あるし、英語では、「エレクト」は、LとRとでは、意味がまったく異なってしまう。彼らの耳と舌は、そんなに精巧な作りになっているのだろうかと思ってしまうものがある。


日本語は、書き言葉としてみても、これくらいさまざま言語の要素が揃っている言語もない。象形文字の漢字、表音文字のひらがな、さらには、外来語によく合うカタカナまである。難訓漢字に振られるルビなどは、世界にも類例がない言語である。これくらい正確に、多言語でも違和感なく、持ち込める言語は、なかろうかとも思う。


アルファベット属が、表音文字しか持たず、象形文字を持たないのは、人間による事物の象形化は不可能であって、唯一神のみに許されたことだとするヨーロッパ圏(イスラーム圏を入れてもよい)の人々特有の信仰に拠る。つまり、象形文字を使うことは、偶像崇拝に属することなので、忌避されるのである。あの単純なアルファベットしかないから、記号論などという、そこでしか通用しない学問が起こってしまうのである。


ちなみに、今、英語では「WA」という日本語が経営学の論文などの中に、入ってくる流行りがあるそうだが、これは、聖徳太子が言った「和」のことである。英語圏の人々には、必ず、ある違和感を以ってしか発音されない言葉だろうと思う。


日本語は、すでに漢字という外国語が含まれている言語であるという見解があるが、その通りだと思う。漢字を輸入するにあたって、日本人はこれを訓読という離れ業で対処した。離れ業であったから、これが浸透していく過程では、ずいぶんな時間と知恵を要した。仮名の発明は、その間に生まれた出来事だが、それが、ちゃんとした形に整うまで、異体字の発明は数知れなかったのである。今も、役所を悩ませている仮名の異体字は、もう、本当に一部の人しか読めないくらいである。


それは、ともかく、あの漢字の、一見、合理的でありながら、実は不合理極まりない、一語一語覚えていく他ない形象性は、実は、日本人の頭脳を大変形象的に鍛えているので、そこに、英語などのアルファベット属の言語を持って来られると戸惑わざるを得ないのが、本当のところではなかろうか。


漢字についてもっと言えば、あの複雑な象形文字を読み間違えなかった日本人など、一人もいないと言っていいので、自省してみれば、誰でも、漢字については読み間違いをして笑われた苦い思い出を持っているもので、日本人の誰も「未曾有」を「みぞうゆう」と読んだ元総理の麻生を笑うことはできないはずであるが。


ロシアでは、高校3年生にもなると、もう、日常の英会話には困らなくなる。これは、ロシア特殊の事情によるもので、帝政ロシアの時代、貴族たちは、サロンではフランス語しかしゃべらなかった。ロシアは、そうした伝統を持っているから、そうなるので、決して、ロシア人の頭の優秀さ語るものではない。むしろ、彼らアルファベット属に漢字を習わせたら、どうなるだろうかという質問の方が、興味深いくらいである。


また、日本語はあいまいな言語であるという頑迷な俗論があるが、そんなことは、どの言語でも有り得ないことなので、ヨーロッパ人たちの僻見によると断定した方が、当たっていると思う。ニュアンスの豊富な言語であることは確かだが、それと曖昧さとは次元の異なる話である。むしろ、日本語は、どの言語よりも、ごまかしがきかない言語だというのが、わたしの見解である。


日本語は、正確に使おうとすると、どこまでも、正確さが求められる言語で、これは、漢字の持つ豊富な意味性を、少しも削り取ることなく、そのまま取り入れた言語であることにもよっているようだ。


また、日本語の肯定か否定かの発音は実にはっきりしていて、「はい」と「いいえ」である。「はい」は全世界共通の笑い声である「ハ」音を頭に置く、紛れようもない肯定で、「Yes」や「Oui」ののような下から従うような発音ではない。「いいえ」も実にはっきりしている。そこで、言葉が、もう絶えてしまうような「言い切り」である。だから、大人になると、この言葉をわざと紛らわす言い方をする人が多いのである。


ちなみに、別れの言葉、「さらば」や「さようなら」も、「左様ならば」から、転じた言葉で、英語の「Good bye」や中国語の「再見」のような、再会を期するような意味合いは少しもない。だから、日本人は、この言葉を正確に発音することを嫌がる人が多いのである。


正しい日本語とはいうが、「正しい」の意味を取り違えれば、こんなに強い言葉を、相手にぶつけることになる言語はないと思えるくらいである。