Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 紙幣という形而上 <国際通貨不在の時代>

雑駁な言い方を、許してもらえれば、マルクスの「資本論」は、通貨が金貨や銀貨であった時代のもの、ケインズの経済論は通貨が金銀から紙幣となる移行時代のものと言えるのではないだろうか。


1978年から、金が通貨の座を奪われ、国際通貨が不在となり、通貨はことごとく価値が相対化された。この価値を保証するのは、今のところ国家と共同体という巨大な法人のみである。国と共同体の信用度によって通貨の価値は決まる。 通貨は、すべて相対的な信用貨幣となったのである。


つまり、通貨は、金という形而下的に実質的な価値を持ったものから、形而上的な「信」という観念にその価値基準を変えたのである。法人の力は、形而下的な金銀の多寡に拠らない。形而上的な信用度に依ることになったのである。


それで、考えるのだが、欧州はユーロ通貨を発行した。建前はEUの理念を実行した通貨ということだが、ドルが基軸通貨であることに対抗して作ったということもあるし、踏み込んで考えれば、現今の国際通貨不在の時代にヨーロッパ(それもキリスト教圏内)の人々を守りたいという保護主義的な政策であるという裏面も見えてくるようである。


先に、国家や共同体が信用を失えば、その国家や共同体の通貨はその価値を失うことになると言った。しかし、ユーロが健在であれば、そこに入っている国が信用度を落としても、その国の人々は財を失うことにはならない。これは、よくできたいわば、巧妙な形而上的な支えであると言える。


それはそれとして、形而上と言ったのは、紙幣は「信」という形而上的観念に拠らなければ、存立できない通貨だからである。形而上的観念であることを、進んで是認しなければ、成り立たない通貨である。そうでなければ、紙幣は単なる紙切れに過ぎない。金銀は、そうした形而上に拠らなくとも、形而下的な実質的な価値を保ちうる。


そこで、現実を見ればどうであろうか。日本では、(わたしは日本だけに限らないと見ているが。)もっとも、強い流通通貨は「現金」である。現金とは日本銀行券に他ならない。 日本政府が経済的な信用を失ってしまったら、単なる紙切れとなるものである。現今の社会では、金銀は換金という手続きを経なければ、実質的な社会的通貨価値を持ち得ない。因みに、日本では、五百円硬貨等の硬貨は、補助通貨であって、正式に現金と認められているのは、紙幣のみである。


考えてみれば、不思議な慣行状態であり、一種の価値の転倒状態といって良いことが起こっている。紙幣は、言ってみれば、巨大な法人によって、「良く管理された紙」に過ぎない。


儒教の五徳の中の、ひとつにも数えられる「信」は、現代社会において、その形而上的な価値が、形而下的なもの(通貨)に転化されて、誰も怪しまないほど、普遍的な実質的な価値をもつものとなったのである。


金が1978年のキングストン合意によって、流通通貨としての王座から下りざるを得なくなったのも、世界市場の爆発的な巨大化という現実的な事情にも依るが、(そもそも、金銀の稀少価値という古風な価値基準が、現代世界の市場の巨大化に間に合わないからである。発掘された金銀の全体量が少なすぎるのである。)国際通貨の不在という状況は、今日的な課題であることに変わりはないだろう。


絶対的な価値を紛失し、尽く、相対的な価値と変じた現代の紙幣は、であるから、その価値を法人における「信」という形而上的な観念に、その価値基準を置かざるを得ない。


しかも、その形而上は、お金という「数字」に置き換えられる。形而上という、それこそ質的な、形で表せない筈のものが、数値化されるのである。日々、報道で目にする株価や為替などの数値が、如何に、質的な価値を担った不思議な数字であることかの証左であるだろう。


原始、人々が通貨を貝に、その価値基準を置いた世界に戻りつつあるようである。だが、それは、限られた共同体の中でのみの話であった。貝に通貨価値を置いた世界も、もちろんその価値基準として、「信」という形而上的観念に依拠していたのは、論を俟たない。(稀少価値を原理としては、貝の量が多すぎる。)そうして、貝は、非常にローカルな通貨であった。


問題は、このあまりにも人間的な「信」という徳目が、紙幣という通貨を、介してであるが、これほど広範囲に世界的に重きを得た時代は、史上かつてなかったということである。ベルクソンが言うように、量的な変化は、質的にも変化を伴わざるを得ない。通貨もまた例外ではない。


序でながら、最近のリーマン・ショックの出来事は、そもそもが、信用度の低いサブプライムローンという仕組みに、過度な信用を置いた結果に他ならない。


現今、「国家」や「共同体」などの巨大な法人たちは、だから、「この良く管理された紙」を経済的な支柱として、日々、形而上的にその信不信を試みられていると言って良いので、数値化されたそれは、株価や為替等の不思議な数字として、また、平たく言えば、信用をなくしたら、それで終わりであるという、極めて人間的な狭い道を、通貨は今や、世界的に進んでいると言って良いのではないだろうか。


さてだが、このわたしの考えは、専門の経済学的にはどうなのだろうか。