メディアでは、よく、コメンテーターという新種の職業人、多くは法曹界で仕事をしていた人々が、日本は法治国家だから、あらゆることを法制化すべきだというような、論を成しているのを、見かける。 俗な世人たちは、また、それに乗っかって、同じような言い分を、自分の意見として騒ぎ立てている。 よく、考えて欲しい... 続きをみる
常識のブログ記事
常識(ムラゴンブログ全体)-
-
前の記事で、尾身会長のことを持ち上げる記事を書いたが、現在は、尾身会長は、本来の専門家の発言から逸脱しているように思える。 東京五輪は、高度な政治的判断が要求される場であって、専門家の意見がそのまま通る場ではない。 ある野党議員からの答弁から、その逸脱が始まったようだが、開催するなら、すべて無観客... 続きをみる
-
しばらく、ブログを休んでいました。失礼しました。 前に、キャッシュレス貨幣について、触れた記事で、量子コンピューターが導入されるなら、その桁外れな計算能力によって、暗号のような鍵のついた貨幣は、再び紙に戻らざるを得ないという意味のことを書いたが、テレビで、量子暗号通信なるものを報道していた。 これ... 続きをみる
-
高みより見下ろすごとく民主主義唱うる人の如何に多きか 生臭き政治の他にこの世には秩序もたらす仕組み無きやは アメリカの常識いずこ秋選挙
-
現代、よく「自分を表現しろ」とか「自分を出せ」とか、盛んに言われるが、わたしは、少し、薄気味の悪いというか、ある意味でどうかしている風潮のように感じている。 当たり前なことを、言わせてもらえれば、自分などというものは、そもそも、取り立てて言うに足りないものであるのは、動かぬ常識と言っていいものだろ... 続きをみる
-
わたしは、専門家という人は尊重している者だが、文芸や芸術においては、専門というものを信じられない人間である。その道のプロとは、昔言葉に過ぎないと言ったら言い過ぎかも知れないが、文芸を鑑賞するとき、どこに、専門センスが必要な文芸や芸術があるだろうかとかんがえてしまうのである。 素人とは言うが、現代の... 続きをみる
-
「大学」は儒教の初学者のための書。「中庸」は儒教の奥義が書かれた書とされています。「大学」巻頭には、儒教についての構造的な文章が書かれています。「修己治人」というのがその圧縮した表現で、要するに我が身を修め、しかる後に国も治まるようになるという考え方です。「日日新たにして、日日に新たなり。」これは... 続きをみる
-
原題は「意識に直接与えられたものについての試論」という長い題です。ベルクソンは、われわれが日常感覚として持っている当たり前な自由感から決して離れません。自由が哲学者の間でどう論議の対象となろうが、この自由感からものを考えようとします。ベルクソン自身が、わたしは実在論も観念論も行き過ぎていると感じた... 続きをみる
-
日本はタテ社会であるという現在では当たり前となっている常識を作った書です。著者の言うタテ社会の意味は、しかし、実際に本書を読んでみれば分かりますが、現在流布している「タテ社会」という言葉とは、ずいぶん異なったものです。常識として通用している言葉が、いかに本来の意味合いから遠ざかってしまうものである... 続きをみる
-
残念ながら現代は、当たり前な「感覚」がどんどん麻痺していって、何が当たり前かなのかさえ戸惑うような無秩序な混沌とした時代になっています。その当たり前なコモンセンス「常識」を取り戻し、その本当の力を発揮させること。忙しさにまぎれてしまう現代人にはなかなかむずかしいことですが、現代人に課された、最も必... 続きをみる