エッセイ 働くということ 3 <西洋風の見方>
ここで、西洋風の人々の働き方を、見てみたい。聖書には、「人間にとってもっとも喜ばしいことは、大勢の親族が仲良く集まり、酒を酌み交わし、ごちそうを食べることである。」とある。また、「人間の為すべきことは、神のことばひとつひとつによって生きることである。」と。
そして、新約聖書では、職業人が登場することは数少ないのだが、例えば、収税吏のような、人々から金を吸い上げる仕事は非常に罪深い労働であるとされている。
聖書、旧約聖書には、およそ、人々にとって生きがいとなるものに、働くことが加わることはないと、言って良い。
これは、ギリシアのソクラテスの時代もほぼ同じであって、あくせく汗を流して、下積みの仕事をしているのは奴隷であり、高級な人々は、もっと高次の仕事を行う。
中でも、もっとも「幸福な人」と皆から讃仰されているのは、仕事もせずに、考えることのみに没頭し、アテネの街角で人々を捕らえては、対話をしかけるソクラテスという不思議な男に他ならない。
そうして、この男は人々が従事している職業について、そのもっとも痛いところを突き、「君たちは、自分がしている当のそのことについて、本当には、何も知らないでいる。」と、名だたる人々を完膚なきまでに、打ちのめすのである。
こうして、見ていくと、西洋社会では働くということの意義は、ずいぶん不安定なものと考えずには、いられないものがあり、こうした伝統を持っているところだということを、頭に入れて置いた方が良かろうかと思う。
職業に貴賎はないといわれるのは、ずっと後世になってからであり、また、これは、東洋思想の流入に拠るものも大きいと、わたしはかんがえる者である。
だが、このことは、また、後にまわそうと思う。
<続く>
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。