エッセイ 働くということ 4 <経済学と資本主義>
次に、働くことに直結する、経済学という学問について、かんがえてみたいと思う。
ただ、わたしの場合は、経済学という学問には、素人の知識しか持ち合わせていないこともあり、どうしても、後に不明を恥じ、牽強付会の説を為すかも知れず、予め、そのことについては断って置きたい。素人の怖いもの知らずの論になると思うが。
だが、これらの文章はわたし自身、一所懸命、ほとんど誰の力も借りず、かんがえたことであることには、留意して欲しいとは思っている。
先ず、経済学の特徴は、その学問がとても若いものだということである。「国富論」がその先駆的な著と言われているが、富国を説くこの著は、中国の古い思想である富国強兵を、プレ資本主義の時代に、掘り起こしたものと理解しても良いものだろうか。
資本主義経済とは、手短に言ってしまうと、人間が、大金を稼ぐ社会的な装置を見出した運動のことと言って良いと思っている。
ともあれ、ベルクソンが言ったように、量の拡大は質の変化をもたらさずにはいない。古代、経済学という学問が成り立たなかったのは、その第一の基準とされる金の量が、現代社会と比べて、圧倒的に少なかったからという論も、強ち不当なものとは、言えないと思っている。
わたしは思うのだが、経済とは社会生理現象に他ならないということである。文学や哲学の起源は古いが、経済学が学問として、後塵を拝したのは、文学や哲学が、態々、人間の生理現象というものを説かなかったこととパラレルな関係にあると思うのである。
生理現象を学問として扱うのは、無理があるだけではなく、馬鹿げてもいると。事実、金は確かに大事なものかも知れないが、それは、人間の生理現象が人間にとって必要不可欠なものであるのと変わらない。
それ以上の意味を、金というものに付与するのは、越権であると。
古代、金について書かれた古典を拾ってみよう。聖書には「金はすべてのものに応ずる」とある。新約聖書には「金持ちが天国に入るのは、駱駝が針の穴を通るよりも難しい」とある。論語には「富て奢らざるは易し、貧しくして恨まざるは難し」とある。いずれも含蓄のある、それぞれのことばについて、一冊の書を著せるほど、重みのある言葉の数々ではあるが、当時の社会環境は、現在の、資本主義によってもたらされた中間層という階級を作らず、ほとんどの人が、貧しさに喘いでいたという歴史的事実がある。
金持ちは、本当に、ほんの一握りであった。そうした時代に、経済学という学問が興らなかった、或いは、萌芽のみしか残さなかったのは、どうしてもこれは、必然的なものだったのであろうと思う。
杜甫の詩だったと記憶しているが、塩の専売の権利を得たために、財を成した者が、その女房は、夫が何故こうした財力を得たかも知らずに、享楽に耽り傲っていることを、その詩の中で、難じているが、財を得るとは、専売の利権を得るかどうかというような、運不運の作用が決定的に働いたのである。
計画的に財を成せるようになった現代とは、その点が、根本的に違うのである。だが、論は、資本主義経済まで持ち出すことになった。
また、よくよくかんがえて、文章を書き進めていきたいと思う。
<続く>
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。