エッセイ 働くということ 2 <人生を照らすもの>
次に、語義から見てみたい。はたらくというのは、はた<傍>をらく<楽>にすることであると、言われることがある。これは天理教でいわれている言葉で、教祖の中山みきの一種の天才性を表している解と言って良いと思う。平易な言葉で、働くことの意義を良く表している。
実のところ、わたしは、働くということの意義に関して、この傍を楽にするという以外の、明快でしっかりした解を聞いたことがないのである。ただ、この解を全面的に支持するかと言われると、そうでもない。この解は、はたらくということに関して、ある一面しか表していないと、心のどこかで思うからである。
そこで、ここでは、働くという語の、その使われ方をよく見てみよう。「この薬は良く働く。」というような場合、役に立つ動きとしての意がある。また、「あの人は会社の中でよく働く。」という場合は、会社の中で潤滑油のような立場にある人の意と捕らえることができるだろう。
豊臣秀吉の口癖は、「俺ほどの働き者はいないよ。」という言葉であったそうだが、この動き回りつつ、迅速に考え、使われることを信条とした男は、信長に使われることを、信長からの愛情とした。
こうして見ていくと、働き者というのは、上からの指示、あるいは自分の理想とする人の思いなどを、十全にまっとうすることが、その意義ということになるであろうか。
さらに、もう一つ、働くということの肯定的な側面を述べると、働くことには喜怒哀楽の情が伴わずにはいないことであろうか。ただ、まるで、感情を伴わない労働も、人によってはあるにしても。
ランボーの詩にこんな文句がある。「分別が俺に戻ってきた。労働によって人生は花が開く。俺は人生を祝福しよう。」と。これは、ランボーらしからぬような言葉のようであるが、この本質しか語らなかった詩人は、人生を肯定するときには、是非とも、労働に拠る喜びが欠かせないことを、よくよく知っていたし、また、そのことを、彼は、詩を捨てた後の半生で、証明したかに見えもする。これは、わたしの独断的な見方に過ぎないのであるが。
ともあれ、分別ある働き、これは何にもまして、人生を明るく照らすものと言って良いのであろう。
こうして、書いてくると、1で述べた「隠居」については、どうなったのかと言われるのは、まったくその通りなのだが、働くということについて、ある程度、しっかりした言を成さんとすれば、強烈な矛盾というべきものを、体験しなければならないのは、わたし自身、予め、かんがえていたところでもある。
この文章が、果たして、文章としての態を成すかどうか、しかし、これは実際書いてみなければ分からないことではある。
<続く>
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