エッセイ 予見というもの <哲学者:ベルクソン>
ご存知の方は、少ないと思うが、フランスにユダヤ系のベルクソンという哲学者がいた。この人はまた、ノーベル文学賞受賞者であるが、その作品の難解性もあってか、あまり知られていない。
フランスの、例えば、サルトルやカミュという人なら、一度でも、その名前を聞いたことのある人は多いと思うが、ともかく一般には、馴染まない名の人と言って良い。
そのベルクソンの所論として、「予見というものは、決してできないものである。」というのがある。ベルクソンはある記者から、「これからの小説は、どうなるでしょうか?」と問われたとき、「それが分かっていたら、自分でその小説を書くでしょう。」と答えたという逸話がある。
ベルクソンのかんがえには徹底したものがあって、その論の驚くほどの、論理的直線性と分析力と直感力の鋭さは、敬服するばかりであり、わたしは、ニーチェよりも偉い哲学者だと認識している。
ベルクソンは言う。「砂糖水を作るとする。水に砂糖を入れてかき混ぜてから、あなたは砂糖が水に溶けるまで、待っていなければならない。このささやかな経験が、大きな教訓である。」
ベルクソンは、「浸透」ということばを良く使う。例えば、ある文化が他の文化を取り入れるというとき、多くの時間を費やすし、また、時間を費やさなければ、本当のものは得られはしない。「待つ」という時間が必要なのである。
従って、未来とは、待たなければ決して得られない時間だということに想到する。予見など、決してできない相談のものなのである。
わたしは、このベルクソンの所論を、真理と信じて疑わないものである。
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