エッセイ 句の季語の重なり
俳句には、季語が必須だが、はじめて句作りをしようとする人がしがちなのは、季語の重なりであろう。
句の中で、季を表す言葉が二つ以上あると、どうしてもfatな印象を与える。季語は句の中で、一つのみという鉄則があるわけではないが、一つの方が、句がスッキリとして、焦点が定まりやすいという利点がある。
本によっては、語の経済という言い方をしているようだが、これは苦しい言い訳のようで、ハッキリと句に締まりがなくなり、焦点がぼやけると言った方がいいようである。
名句というものを見てみても、まず、季語は一つなのに注目したい。独り立ちしているような句は、やはり、一つの季語を生かして、スッキリとした姿をしている。一つだけの季語を生かすというのが、俳句作りの眼目である。
ところで、無季句というものがある。これは、名句が無いわけではないが、季語を持った句よりも数段難しいもののようである。
すぐに浮かぶのは、作者は忘れたが「漆黒の関東平野に火事一つ」であろうか。これ以外の無季の名句というのは、わたしは他に浮かばない。
無季句ではないが、破調の句で、放哉の「咳をしても一人」でも、山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」でも、ちゃんと「咳」や「青い山」の季語が光っている。
繰り返しになるが、何よりも、一つの季語を生かすこと。これが句作りの要諦のようである。
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