Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 源氏物語考 4 <雲隠>

宇治十帖が、始まる前に、「雲隠」と題した題名だけがあって、本文のない巻があるのは有名だが、式部もにくいことをするものだと思う。


本居宣長は、「紫文要領」の中で、光源氏を、いかにも深く「もののあはれ」を知った人として、「この上、誰が心の上に源氏の死のあはれを書こうぞ」と言っていて、その通りだと思うし、抑も、宣長の「もののあはれ論」は、「源氏物語」を論うとき、必須であって、これに触れない論というものはあり得ないと思うほど、抜群と言っていいほどの卓見であり、今日に至るまで、この宣長の論を凌駕するような源氏物語論は出ていないのである。


先程、にくい書き方と言ったが、わたしは思うに、この書き方は論語の孔子の故知に習ったものだと想像するのである。ご存知の通り、論語には、孔子が、どこでどのように亡くなったかの記載が一切無い。それにも関わらず、論語は間然とするところなく、完結している。要するに、孔子のような聖人に対し、どこでどう死んだかを詮索する方が余計事であるというきっぱりとした態度を持っている。いや、そういう言い方さえ、力み過ぎていると言っていいほど、当たり前に書かれないのである。


われわれがそういうことを気に掛けるのは、ほんの現代的な趣味に過ぎないということが、腹に堪えて分かっているなら、そうした書き振りになんの不満も出ないはずであろうが、現代的趣味というものはそれほど深く、われわれの心緒に根を下ろしているものである。


そうしたことに、惑わされなければ、わたしがにくいと表現した理由もお分かり頂けるだろうと思う。ともあれ、光源氏は、式部が<女が>無制限に愛し得る男だからである。


これは比喩になるが、源氏物語には、一筋の細い糸が、全編を貫いているように、わたしには見える。これは、この物語から直に感じられる、言わば勘所の一つで、源氏はさまざまな女たちに、また、さまざまに性格を模様替えをして応じる、そうした七変化するマンダラのような性格の持ち主ではないということである。


この一本の線は、次第に磨き上げられ、これが、そのまま源氏の脊髄であり、骨格であって、その顔と姿も、その糸から端然と編み出され、源氏が持ち合わせている、この世ならぬ徳さえも、その元を正せばその糸に行き着くであろう男として、まるで最後には金の糸と見えるまでに成長して行く。常識的な判断では、どうしても掴めぬ光源氏という人格がしっかりと織り上がるのである。


式部に、漠然としてあった物語を書こうとする動機が、最後には、錬金術の過程を経たように見事な金糸となって、この物語を包む。そのように思えるのである。


光源氏とは、そのような物語の生命として、命を分有されている男なので、物語の中でこそ、一本筋の通った、そのままの姿で光り輝く男なのである。雲隠の巻の直前に、「源氏がこれほど光り輝いている姿はなかった」と、式部が語るとき、物語作者としての勝利を語っているのだと見て良いのだろう。


そうして、わたしは源氏が姿を消した後の宇治十帖に、物語上の宗教性を見る。そのままの宗教ではなく、宗教性である。それは、例えば、宗教に必須な老賢者や救世主を必要としない。そうしたことは宗教の倫であって、物語のそれではない。狙いが定められるのは、あくまで、物語としての宗教性だと見るのである。