エッセイ きれぎれ草 8
歴史があるということは
われわれがまさしく生きているという、そのことに他ならない。
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シルクロードからもたらされた夥しい異邦の文化を、無際限に取り込んで、消化してきた日本は、その地図上の形態からも人間の胃を思わせる。世界の胃。そのたくましい消化力は、いずれ、西洋文化やイスラム文化さえ自己のものとして、消化してしまうかもしれない。
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対立する原理の、鋭い交点に、常に立ち続けること。生き生きとした生命の描線が描かれるのはそこである。
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心理でもなければ感覚でもない
ただ生きているということの自己肯定感
まったく純粋な意志と言っていいのだろうか
それとも単なる内部感覚のような自然感といっていいのだろうか。
だが、そこには、一種の敬虔な感情がある。
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よりよく生きようとする意志は
ときに自殺でもしかねない
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皮肉なものは現実的なものである。そうして、現実的なものはそれなりに釣り合いがとれているものかもしれない。
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切り口が鋭い批評は、その対象よりもむしろ切り込んだその当の人間を多く語る。そうして批評によって現われてくるのは、いつもその人の自己の断片である。
だから、批評家は常に自己を全的に掬い上げる大きな直観を持ち合わせていなければならない。そうでなければ、自己はたやすく分解してしまう。自分を切り売りするような労多くして得るところの少ない、業の深い仕事である。
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余計者とは、余計になった者のことではない。余計なことばかりしたがる者のことである。
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怒りを抑えるのは理性というより、怒りに対する精神の全的な注意力であると言った方がよい。理性はむしろ怒りを正当化する手助けをするものである。
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おせっかいは人の為になされるものではなく、そのほとんどすべてが自分自身の為になされるものである。けれども、だからといって、それをすべて否定する理由とはならない。
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