Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 「愛」は甘くはない <理解という愛情>

前の記事で、「愛」について、若干、言及させてもらったが、わたしはこのことばを単独で、使おうとすると、どうしても気恥ずかしい気持ちが起こってしまうので、今回も、括弧付きで、使わせて貰うことにする。


西洋の「愛」は対等か、対象が拡大された者への愛情と書いた。「汝の敵のために祈れ」というキリストの山上の垂訓を思い出していたからだが、わたし自身は、西洋は、自分自身の感情についても、水を使って噴水という設備を作ったように、自然な流れに逆らうような、反自然的な感情を重んじるところだと、かんがえている者である。


もっとも手近な例を挙げれば、男女間の「愛」の在り方が、対等な立場の人間同士として、すぐに、考えられるところだと思うが、けれども、また、これほど良く、すれ違い易い愛情表現もないものだと、わたしは思っている。「愛」が深まれば深まるほど、このすれ違いは、大きくなるという不思議なことさえ、常態なくらいである。


また、同性間の友情について言っても、異性間と、それほど異なっているとは、思えないようなことが起こっていると、わたしは、見る。フランスのヴァレリーというモラリストに、「われわれは誤解し合う程度に、理解すればたくさんだ。」という言葉がある。


民主主義が、浸透し切った世の中での、言葉であるが、対等な関係での愛情表現というものは、言わば、水平に置かれた水が流れようとしないように、どちらかが、下方に下らないと、よくよく伝わらないもののように、思えるのである。


understandという英語は、その間の事情をよく表していて、西洋でさえ、「理解する」ということは、相手の下側に立って慮ることだという語感が、しっかりと残っているのである。


もう、亡くなったが、野球の野村監督と奥さんとの仲は、最後まで良かったそうだが、テレビで見ていたら、この日は、わたしが相手より上に立つ日、別の日は下に立つ日と、夫婦間で話し合って決めていたそうである。下に立つ日は、その人は相手の言うことに、一切逆らわないこととしていたそうで、これは、ずいぶん賢い夫婦間の取り決めだと、思ったものである。


そうなのである。愛情というものはどちらかが、下側に下りないと、水が下方にしか流れて行かないもののように、うまく伝わらないものだということなのである。


これは、ある意味で、別の見方となるが、「愛」というのは、じつは、とても危険なものなので、日本では、古来、究極の「愛」の表現は心中だったのであり、「愛」とは、その背後に、どうしても、死というものがピッタリと張り付いているものなのである。


モーツァルトが、あんなに若く亡くなってしまったのは、彼が真の「愛」の使徒だったからに他ならず、キリストの本当の弟子だったことに拠るのだと、わたしは、おもっている。


西郷のことばを、ここで繰り返す必要もないだろう。「愛」とは、けして甘いものなどではないのである。