エッセイ シェイクスピアとドストエフスキー <試論5>
シェイクスピアの四大悲劇で、わたしがおもしろいと思うのは、劇を推進させるそのものの原動力が、人間としての弱さに、拠っているということである。
「リア王」では、リアが最愛の娘コーディーリアからこそ、甘言を聞きたかったのだが、それができず、信用のならない二人の姉の甘言に、まんまと乗せられたことが、この悲劇の発端であるし、「オセロー」では、デズデモーナの愛情を、オセローが本当には信じ切れずに、策略家のイアーゴーの讒言を信じてしまったことが、この劇を進める力となる。
「マクベス」は、魔女の予言に乗せられた、とは言え、進んで悪事に身を染める、そのことが、そもそも人間としての弱さと言って、良かろう。
「ハムレット」だけは、その点から言うと、やや違っているが、そのことは後で触れたい。
「リア王」で、この劇の発端となる場面を、よくよく見てみたい。わたしは、リアとコーディーリアの思いのすれ違いこそが、この悲劇を生む発火点であると、見る。
リアは威厳に満ちた、有能な王だったのであり、娘のコーディーリアは、そうした尊敬に足るリアに思いを寄せ、その王としての立派さを信じていたのであり、そうして、領地を巡る重要な話し合いの際には、自分は、甘言をしゃべり立てられるような人間ではないし、また、優れた人間は、そんな見せ掛けの上っ面な甘言など、見抜いてしまうという思いがあったと見て良かろう。
それが、そのまま、リアへの素っ気ない言葉となった。これは、コーディーリアの賢さと見てよい。
だが、リアは、すでに老いた王である。リアはコーディーリアが、賢い娘であることを重々承知しているし、二人の姉の甘言が上っ面であることも、分かっている。それでも、リアはそのコーディーリアからこそ、甘言が聞きたかったのである。賢い娘の甘い言葉に酔いたかったのである。
この人間としての弱さは、王として相応しくない。優れた人間としての分別を失った者と、言って良いくらいである。
しかしながら、劇を見る者は、リアの怒りの方に感情を寄せる。人間としての弱さに共感する。そして、リアは、あっという間に、怒りに委せ、信用のおけない二人の姉に、領地を譲ってしまい、それが、この劇に自然力を思わせるような激しい流れを生む。
その後の話の展開には、吉田健一による、すぐれた評論がある。わたしの贅言は無用だと信じる。「リア王」について、詳しくは、吉田健一著「シェイクスピア」という本を、参考にして頂きたいと思う。
<続く>
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