Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 働くということ 14 補足 <FIREのこと>

NHKで「FIRE」の特集をやっていた。FIREとは、フィナンシャル・インデペンダント・リタイア・アーリーの略語だそうで、要は、経済的に自立した早期退職という意味である。


この番組を見て、第一に、思ったのが、現代の会社員、特に、大企業で働いている人は、働くことに、お金以外の価値を、まるで見出せていないようであるということだった。


まず、その大企業で働いている上司自身が、辛い顔を毎日のように見せていると言う。少しも、仕事が楽しそうでない。そうした環境で、働くことに、ほとんど絶望してしまったという若い人が、FIREを目指す人として、出演していた。


番組では、コメントするために出てきた人は、今、流行りの「自分らしく」という決まり文句の価値観しか、語っていなかったようである。


この番組は、わたしには、別の角度からおもしろかったのだが、以前の論考で、横町の隠居のことに言及したのだが、この江戸時代に流行っていたことが、今現在、日本の若い人の間で流行っていることではないかと思ったのである。


前の論を、ここで繰り返そうとは、思わないが、わたしの論を注意深く読んで頂いた人には、わたしが、何故、働く人の幸福ということに言及しないで、わざわざ、「道」という迂路をとり、見巧者まで持ち出したのか、疑問に思う人が、少なからずいたであろうと、推察している。


わたしは、じつは、そのことについては、すでに、論が決着しているという具合に踏んで、略したのである。


突き詰めて言えば、自分の幸福だけを追求しているという人は、その自分の幸福なるものを、人に見せびらかせずには済ますことはできず、それを避けようと思えば、他者の幸福を入れ込んだ上で、自分の幸福を求めなければならないという、たいへん、単純な真実に帰着すると、かんがえたのである。


これを敷衍して言えば、最近、とみに耳にする、自己実現なることばがあるが、これは究極の「自分らしく」である。けれども、これを口に出して憚らない人は、大きな勘違いをしているとしか、わたしには、思えないのである。この自己実現というものは、大きく他者を入れ込んだ上での、幸福の追求そのものに他ならないということである。


これはこれで、一見、理に適っているようだが、理の在り方が性急にすぎ、言わば、あまりにも理想的で、人に現実的なゆとりを与えないのである。


こう、質問してみよう。もし、誰もが、本当に自己実現してしまったら、世の中はどうなってしまうだろうか、と。よくよく、かんがえて見れば良い。自己実現などという極端にむずかしい仕事は、何千万人の中のひとりでも、それなりにすれば、充分すぎるくらいのものなので、ごくごく限られた人の中の、わずかに選ばれた天才にこそ向く、途方もない事業と言っていいのである。


それこそ、ユングのように、百年に一人か二人出れば、良いくらいな人であって、一般の人に、それを仕向けるのは、過酷すぎるくらいの代物なので、上に少し、引用させてもらった暗い顔をした上司は、そうした事業に直面している人と言っても良いとさえ、言い得るのである。この人を、ただ、お金のためだけに働いている人と見るのは、けして、正確な見方ではない。他者の幸福を入れ込んでいるからこそ、その辛い顔を崩さないと見て、差し支えないのである。


自己実現、ということばに酔っては、いけない。


だからこそ、古くは横町の隠居、わたしの論で展開させてもらった、見巧者という早期退職者、言わば、働く人を応援するような、クッションとなる人が必要だと、踏んだのである。


このわたしの論が、何かであるならば、幸甚、この上もない限りである。