Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 小林秀雄と吉田秀和 2 <解釈というもの>

吉田さんが聞いたという小林のことばには、付け足しがあって、「独創的な思想家などというものは」ということばが、補足としてあるそうである。


わたしは、その文章を読み、ああ、これは明らかに思想上の相違だ、どちらもこれは譲れないところだろうと、直感したことを覚えている。


というのも、吉田さんの意見としては、演奏は、決してある決定的な演奏というものが、あるわけではない。解釈というものは、変わりうるものだし、また、そうでなければ、演奏ということ自体が不可能になるだろう。すぐれた演奏家によって、様々で、多種多様な演奏というものがあるので、これこそ決定的という演奏があって、他はいらないということになったら、演奏すること自体、意味がなくなってしまうではないかという、吉田さんの至極、もっともで真っ当な見解をかんがえる、のである。


わたしは、小林の、これは困ったなというような、顔が浮かぶのである。いや、そうだ、理屈としてはその通りである、が。と、「が」がどうしても付いてしまう、小林のことも、同時に思うのである。


それで、小林の方の言い分はというと、「演奏家で満足する」とは、言うのだが、その演奏には絶対と言って良い価値があるということを、言外に忍ばせる。小林の言葉で言うと、「解釈とは、本文そのままのことである」ということ、となる。


この文章を、読む人は、小林の言うことは、なんのことやら、訳が分からないということに、なる人が多いであろうということも、わたしは知ってはいるが、わたし自身の軍配は、小林に揚がるのである。


どうしてなのか、理由が問いたい人には、それなら、小林と吉田の著作を、よくよく読んで欲しいとしか言えない。


芸術というものは、まことに、不思議なものである。