エッセイ 「カラマーゾフの兄弟」ドストエフスキーのこと
自分の人生を、決定付けた本を挙げよと言われたら、わたしは、即座に上記のこの書を挙げる。
だが、この本は、わたしには複雑な、入り組んだといっても良い感情を喚起せずには、いない本なのである。
その入り組んだ感情を、自分自身整理する必要を感じるので、ここで、やや詳しく書いてみることにしたい。
わたしがこの本に出会ったのは、まったくの偶然であった。家に「カラマーゾフの兄弟」の本はあったのだが、じつに汚らしく扱われていて、その本で火の付いたタバコを消したと思しき跡さえあり、この本で「カラマーゾフの兄弟」を読もうという気には、まるでならなかった。扱いがひどかったのは、ひとえに兄貴たちの仕業だった。彼らには、本に対する敬意など、微塵もなかったのである。
そのとき、わたしは高校2年生で、週一回日曜日だけ、きしめん屋でアルバイトをしていた。お小遣いは、高校生に上がってから、もう、もらえなくなった。夕方六時から夜九時まで働いて、1000円と賄いを食べさせてくれて、一ヶ月でほぼ4000円になった。それが、自分のお小遣い代わりだった。
そんなある日、家にあった岩波文庫の紹介文の冊子をなにげなく読んでいると、「カラマーゾフの兄弟」の項に、「世界最高峰の文学」という一言があった。わたしの空想は一気に膨らみ、おそろしく興味をそそられた。
それまでは、兄貴たちの影響で、安部公房などに気を取られていて、文学などこんなものと暗然たる思いをしていた。
そこで、名古屋駅の地下にある三省堂に行って、岩波文庫版の「カラマーゾフの兄弟」を買おうかどうか、迷いに迷ったものである。こんな大きな本が、まず、自分に読めるかどうか不安だったし、折角のお小遣いが無駄金になるかも知れないと、2,3週間ほど迷ったと記憶している。
それで、「もういい、こんなに迷うのは俺らしくない。買っちまえ。」という具合に買った。そのときは、それが、自分自身への最上の人生への贈り物になるとは、かんがえもしなかったが。
弾け飛ぶくらい、いや、これ以上の感動は、あろうかというくらい感動した。
わたしは、「カラマーゾフの兄弟」にうなされるように、日々を送った。そこに目を付けたのが、わたしの兄弟の次男であった。彼はわたしには黙って、わたしの本棚から、勝手に「カラマーゾフの兄弟」を取り出し、読み出していた。わたしは、嫌な気もしたが、「カラマ-ゾフ」以外の世界文学、ダンテやシェイクスピアやほかのドストエフスキーの作品を読み出していたから、黙って見逃しては、いた。
それと、わたしは人が良かったのだろう。兄貴が自分と同じような感動を味わえばとも、期待していた。赤い目をして、本に齧り付いている兄貴の姿を微笑ましくも、思ったものだった。
ところが、その次男の言うことには、「俺は、お前とは読み方が違うんだ。云々。」と、ともかく、兄貴としての威厳を保ちたくて、しようがないらしかった。自分が感動したことはまったく伏せて、ああだこうだと、こちらを攻撃しだした。要するに、じつに、ひねくれた男だった。
人の、しかも弟の本を勝手に読んでおいて、この言い草である。わたしが、トルストイもすばらしいというと、読んでもいないくせに、どうのこうのといちゃもんを付け出した。そのときは、さすがにわたしも、腹に据えかねて、「読んでもいない奴が、何を言っているか。」と一喝した。
この次男とは、正月に顔を合わせるのが、習いなのだが、そのたびに「カラマーゾフ。カラマーゾフ」と下の弟と話そうとする。未だに、「カラマーゾフの兄弟」は自分の専売だ、くらいに思っているのである。だが、彼は、残念なことに、この書は一回くらいしか読んではいず、ほかのドストエフスキーの作品は、まるで読んでいないのである。
そして、これは、亡くなった長男だが、母から、「あの子も、カラマーゾフの兄弟を読んでいるよ。高校の先生から、カラマーゾフの兄弟を読んでいる生徒がいると言われて、はじめて、高校生らしい高校生に出会ったと、いわれたそうだがね。」ということだった。
わたしは、次男には見切りを付けて、この長男と「カラマーゾフの兄弟」について話し合えないかと希望を持った。だが、この希望も見事に砕かれたものだった。
当時、長男は坊さんになって、東京の寺に居た。わたしは大学入学とともに上京し、その寺に挨拶に行き、長男と話し合えると思った。すると、長男は開口一番、「『カラマーゾフの兄弟』の何が面白いんだ。」と言い放ったものだった。
わたしは、悔しくてしようがなかった。長男は、母には、自分の良い風を装っていただけだった。
こうしたことがあった。わたしのドストエフスキー熱は、その後も続き、自分の入った寮でも、また、弟たちも巻き込んで、読み出す人が出てきたものだった。
じつは、これは、今の今でも、続いていることなのである。
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