エッセイ 関ヶ原の合戦考 <日本の真ン中の戦い>
よく思うのだが、関ヶ原の合戦は、何故に、ほぼ日本の真ん中で行われたのか。
源平合戦のときは、平家は、下関まで追い詰められている。もし、歴史というものが繰り返されるものであるなら、同じようなことが起こっても、宜しかろうに、関ヶ原の戦いは、どうしたわけか、日本の真ん中である。
歴史家という人々は、年代とか、人物が居たとか居なかったということなどには、やかましいが、こうした子どもらしい質問には、応えてくれないものである。
もちろん、皆がしっている通り、関ヶ原の合戦の後、平和な徳川時代がしゅったいするのであるが、そのことと、関ヶ原の合戦が、日本の真ん中で行われたことと、どう絡めてかんがえれば良いのか。
そのときの時代の趨勢というものに、なるたけ沿ってかんがえてみたい。
世は、天下統一を望んでいたとは、歴史家の間の常套句だが、いつの世に、戦争ばかりを好み、平和な世を、望まないような時代があったろうか。
天下泰平の世とは、世の中が望めば、実現するというような、生易しい事ではない筈である。
前の記事にも、少し触れたのだが、関ヶ原の合戦を、天下分け目の戦いとして、後、大坂冬の陣、夏の陣を経て、日本ではいくさというものが、意味を成さなくなる時代が到来するが、また、どうしたわけで、こうした戦いが最後となって、その後、平和な世の中となるのか。
関ヶ原の合戦は、じつに、象徴的な戦であったということになるようである。勝者にとって、敵方を追い詰めなければならない理由は、どこにもなかった。敵は、単に敵であったので、悪魔でも不正なやからでもなかった。どこまでも、追い詰めなければならない必要は、まったくなかった。言わば、戦の為の戦という、不思議な戦であった。
合戦の後、あらくれ者たちは大勢居て、いくさがしたい連中は、戦争を求めて、海外へ旅立って行った者も多かったし、元禄時代のときは、まだ戦国の世の余風は残っていて、江戸の町には、親のない子どもたちが、町角に、多く溢れていたのである。
これは、どうしても、もうこれで、戦は止めようではないかと、そのときの時代の大きな人物が、機先を制して望まなければ、世の中にそうした機運は生じなかったであろう。また、戦国の世に逆戻りしても、致し方なかったのではないかと、想像したりもするのである。
だから、信長、秀吉、家康と続いた権力のリレーは、合戦好きな者達のリレーではなくて、平和な世を望んでいた人物たちの手になる、権力のリレーであったことを、わたしは、強く想像する者である。
そうでなければ、どうして、その後二七〇年にも及ぶ、平和な世が出来しようか。
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