Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 長年の不満 <歴史教科書>

小学三年の頃と、覚えているが、社会で日本史の授業があった。その頃、わたしは、自分の国の歴史というものについて、漠然とした敬意を抱いていた。


現代でも今なお、語り継がれている過去の人は、どんなに偉かったことだろうと、かんがえていたりしていた。


そこで、その歴史教科書を読むと、「誰それが誰それを憎んだあまり、殺した」という旨の記述があった。そして、そういう事ばかりが、主立って書かれていたのを、そのときのわたしはこう判断した。こんなことを覚える必要は、どこにもない、と。


また、その書き方は、歴史の重みをまったく感じさせないものだったことにも拠っていた。まるで、近所の人々の内輪喧嘩でも読んでいるような書き方に、わたしは自分の感受性を逆なでされたように感じ、腹が立ってしょうがなく、日本史の勉強を、そこで放棄した。


そのことも手伝って、わたしは小学6年の頃は、日本史のテストで0点を取った事もある。さすがに、そのときは、その点数は恥ずかしくてしょうがなかったが。わたしの親は、放任主義で、勉強などは本人がその気になったら、すれば良いという風であった。


中学時代は近所の人に、この子はこんなに遊び呆けていて、大丈夫かと心配されたくらい遊んでいた。わたしは部活動というものを経験した事がなかったが、狭い道路で、野球のまねごとをしたり、自転車に夢中になったりしていた。


おかげで、高校は私立しか受けさせないという、悪い担任に当たってしまったが。


今の教科書もそうであると思うが、日本の歴史教科書は、共産主義的思想が入り込み過ぎている。古代を未開の時代とし、過去を睥睨し、現代の民主主義政体を格別に持ち上げ、未来の共産化した世界図を描こうとする。


こんなバカげた歴史教育が、いまも行われていることに、ほとんどの人が異を唱えようとしないのは、どうかしていると、よく思うのである。


現代に生きているという理由だけで、過去を侮蔑できるとする、意味の無い優越感に、科学思想とやらも相俟って、現代人は囚われすぎている。


歴史の再検討とは、聖徳太子の不在説や鎌倉幕府の成立年代を、云々するような事ではなかろう。


歴史を、極端に思想がかった人々から、解放すること。今の歴史教育に、もっとも必要な事柄であると思う。