エッセイ 味というもの <人生における>
トルストイによると、人間が利口かどうかを判定するのは、味覚によるのが一番宜しいそうである。
頭は嘘を吐くが、舌は嘘を吐かない。味覚とは、五感の中で、もっとも低級な感覚といって良いものだろう。そうして、これは、よくあることなのだが、舌ではなく、頭でものを食べている人は、とても、多いものなのである。
わたしの兄第の話で、恐縮だが、兄の一人が、安いウイスキーを、ロイヤルウイスキーの瓶に入れておいたところ、それを知らずに飲んだ、別の兄が、そのウイスキーを味わい、「やっぱり、ロイヤルは違う。」と言っていたのを、笑いながら、話してくれたことがある。
身内のわたしから言っても、この兄は味音痴で、この話は、笑い話なのだが、自分が味音痴であることを、本当に知らない人が偶にいて、色々な人に迷惑を掛けているものである。
ただ、味覚に敏感な人は、そういう人の、味に関する意見は、単純で奥行きがないことを分かっているから、それで、迷うということはないのが、幸いであるが。
例えば、人生の味ということになると、どうであろうか。これが分かる人が、先のトルストイの言葉に照らしてみて、賢いということであろうか。
意味とは、これは、わたし自身の見解で申し訳ないが、ものの味というものに、他ならないものだと思うからである。
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