エッセイ 古びた言葉 <啓蒙>
ことばは、生き物であるから、時代とともに生き死にするものであるが。
啓蒙とは、一頃、いわゆる、人々の行動の主軸とさえなったものであるが、今となっては、まったく、見向きもされなくなった言葉に、堕した。
ヨーロッパは、キリスト教を各地に普及させるときに、この言葉を使った。キリスト教こそが、本当の宗教であり、君方の信じている宗教なるものは、全くの異端であると。
ある黒人のプロテスタントであるから、牧師さんだが、プロテスタントの教義に従って、生活したり、人々に生き方を教えたりしている番組が、テレビで放映されたりするのを見ると、「啓蒙」という言葉は廃れたが、その大きな影響は、今でも、確実にあるということを再認識させるようなものがある。
彼の、本当の根っこであるに違いない、原始宗教は、アフリカの奥地で、今でも息づいているのではないかと、わたしは想像する者である。
日本に、仏教がもたらされたとき、古来からの神々との、権力闘争にまで発展し、仏教側が勝ちを制したことは、周知の事実であるが。
日本人は、不思議な仕方で、この宗教との共存を許した。いわゆる、本地垂迹説<ほんじすいじゃくせつ>という形をとった。これは、日本古来の神々を、仏教の神々の下に位置づけて、信仰するという、他国では決して見られない、信仰のあり方であった。
本地垂迹という言葉は、古びたが、その信仰の有り様は、今でも日本人のものの考え方に、大きな力を及ぼしていると、わたしはかんがえている。
アメリカを世界第一の国と、持ち上げておいて、我が国をその下に置くということも、その一例であると思っている。
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